あらゆる人物評伝は、史料や証言者の声が積もり、ページをめくればめくるほど濃厚になるものだが、本書は例外。残り3分の1、安倍晋三の軌跡を追い始めた途端、万事が薄味になる。彼について問われた誰しもが、語るべきことがあったろうか、と当惑する。
晋三が通った成蹊大学名誉教授・加藤節(たかし)は、彼を「二つの意味で『ムチ』だ」と評する。「無知」と「無恥」。「芦部信喜さんという憲法学者、ご存知ですか?」と問われ、「私は憲法学の権威ではございませんので、存じ上げておりません」と答弁した彼を「無知であることをまったく恥じていない」と嘆く。手元の原稿に記された「訂正云々」を力強く「訂正でんでん」と読む宰相は無知を改めない。
憲法改正を悲願とする彼は、母方の祖父・岸信介への傾倒を頻繁に語るが、なぜかもう一方の父方の祖父・寛について語らない。
反戦の政治家として軍部と闘い、貧者救済を訴えた寛。「戦争とファッショの泥沼」の中で立候補した“選挙マニフェスト”には「富の偏在は国家の危機を招く」とある。それはまるで「アベノミクスの果実を隅々まで……」と緩慢なスローガンを反復する孫に警鐘を鳴らすかのよう。平和憲法を擁護し、リベラルな姿勢を貫いた晋太郎は、その父・寛を終生誇りにした。
晋三いわく「公人ではなく私人」の昭恵夫人が、本書の取材に応じている。寛にも晋太郎にもあった気概や努力が晋三に感じられないのはなぜか、との不躾な問いに「天のはかりで、使命を負っているというか、天命であるとしか言えない」と述べる。呆然とする。
安倍家の対岸に住まう古老、“政略入社”した神戸製鋼時代の上司、安倍家の菩提寺である長安寺の住職等々が、晋三をおぼろに語る。彼の存在感を力強く語れる人が、どこからも出てこないのだ。
政界を引退した、かつての自民党の古参議員・古賀誠に語らせれば「ツクシの坊やみたいにスーッと伸びていく」ような世襲議員が、現政権では閣僚の半分を占めている。「ツクシの坊や」のために変更された自民党総裁任期延長に異を唱える党内の声は極端に少なかった。支持する理由のトップが常に「他より良さそう」であっても、自由気ままな政権運営が続いていく。
「私の国際政治学(の授業)をちゃんと聞いていたのかな」と恩師を涙ぐませてしまう宰相は、その薄味と反比例するように、国の定規を強引に転換させている。周囲に募る虚無感と本人が投じる強権とが合致しない。その乖離(かいり)に誰より彼自身が無頓着なのが末恐ろしい。
あおきおさむ/1966年長野県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、共同通信社入社。社会部、ソウル特派員などを経て2006年退社し、現在はフリージャーナリスト。近著に『ルポ 国家権力』『日本会議の正体』などがある。テレビ出演も多数。
たけださてつ/1982年東京都生まれ。ライター。出版社勤務を経てフリーに。著書に『紋切型社会』『芸能人寛容論』など。