6歳の次男が「ぼくのパパなのに」と言って泣いた
――ディレクターの仕事の忙しさというのは、一緒に暮らすようになって一層実感されましたか。
末盛 それは、ものすごく忙しそうでした。夜中まで仕事をしていても、次の朝どうしても出かけなきゃならない時もある。だからと言って、イライラするということはないのよね。疲れてソファに横になっていても、息子たちがそれぞれお気に入りの絵本を持って来て「これ読んで」とせがむと、「いいよ」と笑って読んでやるような、優しさを忘れない人でした。長男が生まれる前に夫が捜してきて引っ越したのが代々木のマンションで、隣はカトリック教会だったというこの偶然には本当に驚きましたね。
――憲彦さんが突然亡くなった時、息子さんは8歳と6歳だったんですよね。
末盛 そうです。でも、彼らのほうがよく分かっていたように思います。末盛はお昼前に自宅の廊下で突然倒れ、救急車で運んでもらいましたが、そのまま意識が戻ることはありませんでした。その夏はひどく暑い日が続いていて、前の日の夜、「この人・武原はんショー」という番組の演出をし、いつものように遅く帰ってきて……。冠状動脈硬化症でした。
医師からは、突然死なので監察医務院で検死をする必要があると言われました。息子たちに会わせなければと思って、自宅に引き返し、息子と義母を連れて病院に戻りました。そのとき、6歳の次男が「ぼくのパパなのに」と言って泣いたんです。親しい者が死んだ時の言葉として、子どもだけじゃなくて大人にとっても、それ以上の言葉はないと思います。だから、何も説明しなくてもちゃんと分かっていると思ったんです。通夜と告別式は、私たちが所属する家の隣のカトリック聖アルフォンソ初台教会でしてもらいました。葬儀ミサの最中に子どもたちは2人とも鼻血を出して、みんなたまらなくかわいそうでした。
「3.11 絵本プロジェクトいわて」(※3)を立ち上げた時も、三陸の津波で大変な思いをしている子どもたちと、あの当時のうちの息子たちが重なる感じがして、何かしないではいられないという思いがあったと、今になって思うんです。
※3 末盛さんの提案から始まった、有志・団体と共に、被災地の子どもたちへ絵本を届けるプロジェクト。
――憲彦さんが亡くなった1年後に、末盛さんは私家版の『テレビディレクター 末盛憲彦の世界』という本を出版されています。
末盛 実は末盛が亡くなる1カ月くらい前に、友人夫妻がやっていた「G.C.PRESS」という会社で「すべて任せますから、うちで絵本を作りませんか?」と声をかけてもらっていたんです。全部私だけでやれるわけじゃないのに、とは思ったんですけど、至光社の頃から自分がこれと思う本を一冊でいいから作りたいという思いがあったので、末盛に相談したら「やってみたら?」と言ってくれて。そしてすぐに亡くなったのね。
その後1988年に「すえもりブックス」という出版社を立ち上げました。といっても自宅内に仕事場を設けたとても小さな会社です。それでも、私には彼の松明を引き継ぎたいという強い思いがありました。人を幸せにする、という意味では、バラエティー番組と絵本にはどこか共通するところがあると感じていて。番組のセットやタイトルの参考にしたいからと、私の本棚から絵本を持って行くことはよくあって、子どもが生まれてから仕事をやめていた私にとっては、とても嬉しいことでした。