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夫の看取りと、車椅子で生活する長男との2人暮らしで知った「幸せとは、自分の運命を受け容れること」の意味

末盛千枝子インタビュー #2

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引っ越して、10カ月で震災が起きた

――そして、ご長男の武彦さんと古田さんと一緒に、八幡平へ。

末盛 私たちが引っ越してきたのが2010年でしょう。そして、10カ月で2011年に震災が起きました。本当に揺れたのよね。電気が通じなくてテレビも映らないから何も分からないけれど、ものすごく近いところで大変なことが起こったんだということだけは分かりました。ほら、梁のところにちょっと金属が入っていますよね。震災の後、大工さんに補修してもらったところです。それと暖炉の煙突が折れるところまではいかなかったけど、ひびが入ったりして「煙突を直すまで、暖炉は絶対に使わないでください」と釘を刺されました。電気がなければ何もできないことを痛感しましたね。

 

 岩手へ越してきて震災があり、被災地の子どもたちに絵本を届けたいと思って、そこから私の人生も大きく変わったような気がします。友人から、「神様が北の海で一緒に働いてくれといってあなたを呼んだのね」という手紙をもらった時には、涙が出ました。そして、こちらに引っ越してきたらもう上皇后さまにお目にかかることもないかなと覚悟していたのに、震災のためにかえって今まで以上にご連絡をいただくようになって、不思議なことですね。

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――震災後、3人での生活はどんなものでしたか。

末盛 毎日美しい岩手山を眺めながら、3人で穏やかに楽しく暮らしていました。古田にはだんだんと認知症の症状が現れるようになりましたが、だいたいにおいて機嫌よく過ごしていたと思います。家にいる時はお手洗いにカウベルを置いて、必要な時はベルで呼んでもらうように伝えていたのですが、ベルが鳴って飛んでいき「どうした、終わった?」と聞くと、「いや、必ずしもそういうわけではない」と答えていかにも哲学者らしく振る舞うところが、なんだかおかしかったですね。徐々に入院することが多くなってきても、彼の好きなイヤリングをしていると、指で指してにっこりと笑ったり、シャンプーをしてから病院に行くと、シルバーグレイの髪がきれいに光るのでとても嬉しそうにしていました。2013年4月に、古田は静かに息を引き取りました。彼の息子一家、娘一家、そして私の息子たちも一緒でした。

 以前、上皇后さまから、古田と「最後まで話ができたの?」というお尋ねがありました。私は「あまり会話ができなくなってからも、私が行くと喜んでいる様子がとてもよく分かりました」と申し上げたように思います。

 

――武彦さんが2001年にスポーツの時の大怪我で、長い入院生活を送っていた時、美智子さまから「病院の武ちゃんにも夜が来るのねえ」というお電話があったと、著書『「私」を受け容れて生きる』に書かれていますね。

末盛 すぐじゃなくて、ゆっくりいろんなことを経験しながら、それぞれの困難を受け容れていくということだったなと思います。それこそ、長男が脊髄損傷のために胸から下が全く動かないし感じないと分かったばかりの時に、島(多代)さんと私を上皇后さまがお食事に呼んでくださって、いつもの御所の応接室ではなくて、ご家族でお使いになるような小さなダイニングキッチンのようなところでお昼をいただいたことがあったんです。お電話はその頃のことだったでしょうか。そうやって、色々な方に助けられてきました。