――新作『坂の途中の家』(2016年朝日新聞出版刊)は、幼い子供を持つ母親が、乳幼児虐待死事件の補充裁判員になるという内容。裁判の数日間の彼女の日常と心模様が大きく揺らぐ様が生々しく描かれて、主婦でも母親でもない自分も思い切りのめり込んで拝読しました。帯の裏表紙の部分にある「感情移入度100%」という言葉が、本当にそうだなと思って(笑)。
角田 ありがとうございます、嫌な話を読んでくださって(笑)。もともと趣味として、事件もののようなノンフィクションを読むのが好きなんですね。それで裁判記録みたいなものを読んでいると、言い方ひとつでいろいろな言葉の意味が変わってしまうことが分かって、面白くて。それで、裁判を書いてみたいと思ったことがきっかけです。
まず、自分と似た立場の人の裁判を見てしまうということを最初に決めました。そうなるとたぶん、主観が入ったり余計に感情移入してしまったりして、言葉の捉え方が大きく違ってくるだろうから。会話のやりとりを聞いているうちに何が真実か分からなくなっていくことを書きたかったんです。それで、じゃあどういう立場にしようかと考えて、30代のお母さんと決めていきました。
――同じ陳述を聞いているのに、裁判員たちも人によって受け取り方がまったく違う。主人公の里沙子には被告が精神的に追い詰められていったんだと感じられるのに、年齢や立場の違う裁判員たちはそれが理解できない。あそこまで受け取り方が違うというのは怖いなと思いました。実際に裁判は傍聴されたのですか。
角田 裁判のやり方を知るために2度ほど見に行きました。面白かったのが、自分自身が人の見かけに左右されていると分かったこと。たとえば、頭に「Z」の字の刈り込みがあって金のネックレスをつけてダブダブのジャージを着た被告人が出てくると、自分ではその見た目で人を判断していないつもりなんですけれど、その人が無罪だった時に「うっそー!」って思っちゃって(笑)。自分は結構見かけや喋り方で人を判断して有罪だって決めつけていたことに驚いたし、それに、言葉のやりとりがすごく脆いものであることも感じました。人とうまく意思疎通ができなくて下手な答えばかりしていると、質問している検察官のほうがイラついてくるのも生々しくて驚きました。
――今回、裁判で扱われる事件を母親が幼い子供を殺してしまった、というものにしたのはどうしてでしょう?
角田 前に書いたものから繋がっているんです、たぶん。『八日目の蝉』(07年刊/のち中公文庫)を書いた時も似た理由だったんですが、虐待事件があった時って母親がすごく責められますよね。母親が虐待したというのと、父親が虐待したというのでは重みが違う。世間の捉え方の重みが違うと思ったんです。やはり母親の虐待のほうが「鬼」のように言われる気がします。お母さんって何を背負わされているの? と思うんですよね。社会によって何か非常に重たいものを持たされている気がずっとしていて、それでそういう事件にしたんだと思います。
――裁判が行われる数日間の話にする、というのは最初から決めていたのですか。
角田 はい。何日目に誰が出てきて証言する、ということや、何日目に主人公の家庭でこういうことが起きるというのを組み立てていきました。でも実際に弁護士の方に聞いたら、この事件だったら4日くらいで終わるんですって。小説では土日を挟んでいますが、実際はそんなことないと言われてしまいました。
――証言を聞いているうちに、主人公の心のなかで被告の印象がどんどん変わっていきますよね。その一方で、里沙子自身が日々をどう過ごしているのかも描かれます。決して近所とは言えない距離の夫の実家に、朝、子供を預けに行き、夜、迎えに行く。お義母さんの言うことに内心苛立ったり傷ついたり……。悪意は感じられないのに夫や義母が彼女を傷つける言動の描き方が半端でなく生々しい(笑)。
角田 ありがとうございます。実はゲラを読んでいる時に、主人公が被害妄想的に過剰にとらえているだけで、義母や夫の言葉にはなんの棘もないのかもしれない、と思い始めて、怖くなったんですよね。ここまで出来上っている世界が、捉え方ひとつでまったく意味を変えてしまうかもしれないということにゾッとしました。でも、それがなんというか、嬉しかった。そういうふうに書きたかったんだと気付いたんです。語り手が主人公なので、彼女の視点から見て悪意があるように書いたんですけれど、それが本当に悪意なのかどうか分からない、という思いが出てきました。