文芸誌の批評に脅えて
――20代からずっと、すごく忙しかったのではないでしょうか。
角田 すごく忙しかったです。『空中庭園』の頃に、忙しすぎてはじめて仕事の依頼を断りはじめたんだと思います。30歳からは9時5時で仕事するようにしているんですけれど、いちばん忙しい時は朝の4時や5時から夕方の5時まで書いていたこともありました。夕方5時が終わりというのは決めていたので、そのぶん朝がはやくなるのは辛かったです(笑)。
――夕方5時になったら仕事を終えて、それ以降は小説のことをまったく考えないっておっしゃっていますよね。最初からそうだったんですか。
角田 最初はそんなにうまくいかなかった気がします。30歳から忙しくなる34~35歳までは、9時5時の間にやると決めつつもそんなに仕事もなかったので、銭湯やプールに行っちゃったりしていましたし。『空中庭園』の時に、仕事場がスポーツクラブの隣だったので、行き詰まると走りに行くというのをやっていたんですけれど、そういうことがあっても、スポーツクラブで小説のアイデアが思いつく、ということはなかったです。ひらめき型じゃないんです。
――スランプはないんですか。
角田 スランプになったこともあります。26歳の時に1回、評論が怖くなって書けなくなったことがあるんです。それは半年くらい続きました。それと、『笹の舟で海をわたる』(14年毎日新聞社刊)を書く前に、書きたいことが何もない、これはスランプかもしれない、と思いかけた時がありました。結局スランプじゃないと気付いたんですけれど。
――26歳の時に評論が怖くなったというのは、どういう状況だったのですか。
角田 文芸誌の月評や合評のところで、もうね、ものすっごい悪口を書かれたんです。当時のああいうページは、今より怖かったんですよね。すごく難しい言葉で書かれてあったんですけれど、要約すれば「角田のバカバカ、バーカ」みたいな(笑)。「無知、無教養、バーカ」みたいな感じの内容の高尚なやつがよく言われたり書かれたりしていたので。
――「バーカ」の高尚なやつって(笑)。
角田 (笑)。その頃は雑誌を触ると分かるくらいでした。ここのページを開けば新人月評で、どのあたりに自分の悪口が書かれてあるかっていうのは。小説を発表した次の月の文芸誌は怖くて開けないくらい落ち込んだんですよね。それで、書こうと思っても、どうせまたバカって言われると思って、どうして自分はこんなにバカなんだろうっていうゾーンに入ってしまって。それで小説も書かずに、まだ9時5時も決めていなかったので、午後2時頃からスーパーに行って買い物をして、4時頃から料理本を見て料理を始めて、6時頃から酒を飲みつつ作ったものを食べ、深夜1時2時までずっと飲んで、小説のことを考えない毎日を過ごしていました。
――その状態からどのように抜け出したのですか。
角田 たぶん、その生活に飽きたんですね。料理も一通り作れるようになって、2時、3時まで酔って翌日は午前中ぼんやりしているということに単純に飽きたんです。「小説、書こうかな」と。「もういいじゃん、何を言われたって」という感じになって。
――結局、小説を書きたかったんでしょうね。
角田 そこですよね、うん。