三十年前まで、日本語には「近代建築」という語はなかった。
少なくとも一般市民の日本語にはなかった。むろん実体はあった。東京駅、大阪市中央公会堂、九州大学の建物群……およそ明治維新から敗戦までの約八十年のあいだに建てられた西洋ふうの建てものを、建築家や建築史家は、つまり専門家はそう呼んでいたわけだ。
そんな一種の学術語が一般市民に普及したのは、週刊誌がきっかけだった。昭和六十二(一九八七)年一月、「週刊朝日」で始まった建築探偵シリーズは藤森照信の短文と増田彰久の写真の組み合わせで当時かなりの人気だったので、最終的には『建築探偵東奔西走』以下四冊の文庫本にまとまった。この文庫本が出たころ私はまだ二十代だったが、ことに短文がおもしろく、二読三読したものだった。
ペディメント(三角破風)がどうとか、下見板の壁の色がどうとか、細部のよろこびが充実しつつ大まかな歴史がよくわかる。学問の裏づけがありつつ軽快でユーモアに富む。ここで語られているのは単なる老朽化物件じゃない、過去の人々の精神活動の最高の達成、すなわち文化財にほかならないのだと目がさめたのは私だけではないはずだ。
藤森氏はその後もいきいきと書きつづけ、いまや斯界の巨星だが、このたびの新刊『近代建築そもそも講義』はその巨星がひさしぶりに週刊誌に帰って来たという点で感慨がある。「週刊新潮」に連載された六十八の短文を収録しているのだ。
細部のよろこびは健在だ。東京でいちばん長い御影石の一本石は上野にある。東京国立博物館表慶館の正面階段の踏み石であるなどと言われるともう確かめに行かずにいられない気がするし、そのくせ大まかな建築史がわかるのも以前とおなじ。
もっとも、以前とちがうところも二つある。ひとつは写真が少ないこと。これはおそらく、個々の物件の検討よりも通読時のテーマの一貫性を重んじた結果だろう。そうしてもうひとつは、藤森氏自身の追憶がふんだんに盛りこまれていることだった。
ひょっとしたら、老境にさしかかったことと関係あるのかもしれない。氏はたとえばこんなふうに記す。
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信州の田舎の私の家の場合、江戸時代に作られた茅葺きの民家の時代は、日当たりもよく作りも立派な座敷があった。昭和27(1952)年、新しがり屋の父が村で先駆けて作り替えた今の家にも、玄関の脇には日頃は使わぬ床の間付きの座敷があり、さらに十数年後、玄関脇に応接間として洋間を付加し、これで我が家も晴れて伝統と洋風の接客空間二段重ねとなる。
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個人史でありながら、これはまた何と「私たちの」家の歴史であることか。
ふじもりてるのぶ/1946年、長野県生まれ。建築家、東京大学名誉教授。86年、『建築探偵の冒険・東京篇』でサントリー学芸賞。著書に『明治の東京計画』など。代表建築に「タンポポ・ハウス」。
かどいよしのぶ/1971年、群馬県生まれ。作家。2018年、『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞。『新選組の料理人』など著書多数。