『どこにでもあるどこかになる前に。』(藤井聡子 著)

 ページをめくると瞬く間に時が経つ。ジェットコースターに似た体感で読了し、感じ得た事を言葉にしようとすると、どうにも眉間に皺がよる。自制するも我慢ができない。――面倒臭え。

 藤井聡子氏の自伝エッセイたる本書は、地元富山、距離を置いての東京が、彼女の冷静と情熱のあいだで醸した感情と共に描かれる。地方のリアルを辛辣に捉える一方で、一貫して己に振り回されながら綴る言葉に、あたかも一緒に旅をしているような、なんなら昔馴染みの厄介な地元友達としょぼくれ居酒屋で飲んでいるような錯覚すら覚える。うっせー聡子黙ってろ、と暴言を吐いても笑ってくれる度量がこの本にはある。

 閉鎖感ある田舎を離れ、都会に出荷されるも結果田舎にリリースされるアラサー女を美談なく描く様には、主人公の大きな成功もなく、美しき田舎の原風景への憧れもない。その土地その時代に生きる人間を地方鍋で煮詰めに煮詰め凝縮した“人間煮っころがし富山風”なのだがこの味わいがまた臭い。ハーブなんて洒落たもん知ったこっちゃない。玉突き屋の誇り高きマダム田鶴子、うどん屋で泣くブルースを歌い上げるカラスさん、地元の潤滑油で猥雑真面目な島倉……と濃い味なゲストに加え、主人公は親のスネしゃぶりニートを経由しライターとなったピストン藤井であり、アク強めな実の家族をも投げ入れ、ガンガン強火なワードで煮倒したモノを、ささ、ご賞味あれと目の前に無骨に差し出される。とんでもねえ店来ちまった感に若干の不安がよぎるも、その味わいはジャンクなくせに繊細で、妙に優しく腹に溜まっていく。最後まで眉間の皺が解けないまま、気づくと目尻がじんわり濡れている事に驚く不思議味。

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 著者含め登場人物が人間剥き出しであり、歪でどうにもバランスが悪い。歪んだまま生き切る様を見せつけられ、読者側の自分も歪である事に気づかされてしまう。読了後浮かんだ言葉が「面倒臭え」なのも、心の奥にひた隠してきた人間鍋の蓋を著者に高らかに蹴り上げられ、漏れ出る己の人間臭さに気が滅入るからだ。臭い、実に臭い。面倒臭い。でも、それを許せる様になったら大人なのかもしれない。臭いモノほど大人になれば美味いと言うがこの事か。その証拠に本書に描かれる大人たちは皆どこか愛らしい。

 かく言う私も茨城の田舎出身で、もう人生の半分以上を東京で過ごしている。仕事もプライベートも田舎が求める正解からは外れ、都会で透明に生きる事もできず、自己主張に濁ったグレーの身体で漂流しまくっている。知らぬ街の小道に自然と導かれるのは、あの臭い煮っころがしの匂いに釣られての事なのか。私の田鶴子を求め、宝探しに行くのも良いかもしれない。土地の空気を吸い込めば、そこかしこで既に薫っているはずだ。

ふじいさとこ/1979年、富山県生まれ。東京で雑誌編集者として勤務後、帰郷。ピストン藤井のペンネームでライター活動を開始。2013年ミニコミ『文藝逡巡 別冊郷土愛バカ一代!』を刊行。地元テレビやラジオでも活動中。

はこたゆうこ/1982年、茨城県生まれ。映画監督、映像ディレクター。監督作に2019年『ブルーアワーにぶっ飛ばす』。