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私たちはいつも喋りすぎる

 優勝を祝福するファンが集まったニューヨーク市役所前で彼女は、共に戦ったスタッフ、ファンに賛辞を述べ、チームを「タフでユーモアがあってどんなことがあっても余裕かましているbadass」だと紹介した上で、「We have to be better.(より良くなっていかねばならない)」と続けた。

 彼女が訴えてきた社会正義は確かに、時に社会信条や思想によって、全員の合意を得るものではなかった。しかし、ここにいる一人一人に世界をより良いものにする責任がある、という彼女の言葉には普遍性があった。より愛し、憎しみを減らすべきだという言葉には、彼女の時に好戦的な態度への自省の念も込められているように思えた。

 中でも差別を憎んできた彼女が、「We gotta listen more and talk less.(話すばかりではなく、きちんと聞くということをすべきだ)」とあえて付け加えたことは、今の世界で生きる私たちにとって大変に意義深い。言葉を発するのがあまりに簡単な昨今、そして発した言葉がいとも簡単に世界中に拡散され得る状況の中、私たちはいつも喋りすぎる。頭に浮かんできたことを端的に言葉にしてしまう欲望に勝てない。感覚的に湧き出た拒絶反応をそのまま言葉にして、それを批判と勘違いしてしまう。本来は、荒唐無稽な世の中において何かを言語化することはそんなに簡単ではなかったはずだし、何かを批判する論考ほど手間のかかる作業はなかったはずなのに。

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©︎getty

 例えば大学院でまだ言語化されていない発見を論文に落とし、権威とされている論文を批判的に論じようとする者は、それに多くの時間を費やし、国会図書館に通い、ゼミの発表で打ちのめされ、睡魔や性欲と戦って机に張り付き、一握りの者が学会発表や書籍化などの場に恵まれる。にもかかわらず、空き時間に携帯を片手に握りしめると、発信というのがそれだけの労力を要するものだというのを忘れ、ものの1時間の間に攻撃的な言葉を世界中に振りまいていることもある。事実、東大で教鞭をとったこともあるような人が、差別的発言を繰り返し、やめると言ってはまた繰り返し、自らの発言を何かに押し付けようとするような事案が、現在という地点には転がっているのだ。