しかし私は、自分の言葉で話そうとするときだけ極端に滑舌が悪くなる自分というのを認めたくなかった。まだまだ喋りの練習が足りないからだと思い込んでいた。よくある簡単な早口言葉を練習で習得していったってダメで、なぜその言葉は言いづらいのか、自分にとって言いづらい言葉の規則性や法則性とは何か、というのを考えなくてはいけないという思いに駆られるようになった。そこから、早口言葉の研究が始まった。その逆をゆけば、言いやすい言葉、口にするのが心地よい言葉もまた考えられるかもしれない。そういう考えもあった。
早口言葉の探求・その1
手術室
手術中
魔術師
美術準備室
貨客船
骨粗しょう症
まずは早口言葉というより、言いにくい単語をずらっと並べてみる。まず見てわかることは、いずれも漢語だ。和語だと、単語レベルで言いづらいというのはあまり思い当たらない。和語が口語、漢語が文語だった時代の名残なのかもしれない。手術や魔術の「じゅつ」、美術準備室の中に隠れている「つじゅ」、貨客船の「かきゃ」、骨粗しょう症の「そしょ」といった音の連なりなどは、和語だけの文章ではほとんど登場しないのではないか。「言いづらい日本語」の多くは、その中に「本来の日本語にはない発音」が含まれている。ディズニーランドをデズニーランドとしか発音できないお年寄りと、本質的には同じ現象なのだ。
以前、アイヌ語地名研究の大家として知られる山田秀三の本を読んでいたら、アイヌ語にあって日本語にない発音をどう表記するかという問題でアイヌ研究の世界が大揺れしていたというエピソードが書かれていた。ある研究者はtuとローマ字で表記し、ある研究者はトにマル(つまり半濁音)をつけるというかたちで表記し、ある研究者は単にツやトとして表記した。アイヌの人たちの間では、ローマ字で表記する研究者はできる限り正確を期そうとつとめているため一番尊敬されていて、ツやトと書く者は見下されていたらしい。そして山田秀三は、その日本語にはない発音は「現在はトゥと表記することで統一されている」と締めていた。学界を揺るがした未知の発音の正体は単なる「トゥ」だった。現代では誰でもオードリー春日の一発ギャグ「トゥース!」を発音できる。しかしそれは時代が下ったからそうなっただけで、日本語になくて他の言語にある発音なんていくらでもあるのだ。だからこそ早口言葉には、日本人が本来は苦手とする発音を含む外来語がひんぱんに登場するのである。もちろん漢語も、元祖外来語だ。
早口言葉の探求・その2
東京特許許可局
そんなところで、この有名な早口言葉を紹介してみたいと思う。もちろん漢語ばっかりだ。この早口言葉、確かにめちゃくちゃ言いづらい。しかし、いったいどのあたりが言いづらいのだろう。T音とK音の連続だからだろう、と簡単に言い切ったりは出来ない。だって実は「とうきょう」はそんなに言いづらくない。この早口言葉では、「とうきょう」の部分はむしろ必要ないくらいの安牌なのだ。タイミングを調整するための「最初はグー」みたいなもの。難しいのは「とっきょ」「きょか」「かきょく」の3ブロック(「か」が2つのブロックにまたがっているところが地味なポイント)。この三つの間でも難易度にそれぞれ差があって、「とっきょ」<「かきょく」<「きょか」の順で難しくなっている。「きょか」はもはや、それだけ単体で言おうとしても噛むことがあるレベルだ。でも、頭の「きょ」にアクセントが来ているときはそんなに難しくない。裁判長が弁護人の異議を認めるときの「許可します」は「きょ」にアクセントが来るので、裁判長はたぶんそんなに噛まないはず。しかしその後に「局」がくっついてしまったことで、「きょ」にアクセントがつかなくなる。三字熟語は頭にアクセントが来ないことが多いのだ。「破天荒」とか「不気味」とか、二音目にアクセントが来る傾向にある。それは「許可局」も例外ではない。ちょっと試しに、文頭にアクセントを置いて「きょかきょく」と発音してみてほしい。「かきょく」が引っかかるのでやはり言いづらいけれど、少しだけマシになるはずだ。難易度が「きょか」<「かきょく」になるからである。「東京特許許可局」が早口言葉として難度が高いのは、言いづらさのランクが混交しているからだと思う。順を追って難易度が上がってゆくならまだ楽なのだ。Cランク(東京)→Aランク(許可局)→Bランク(特許)という風に難易度が推移するので、そのレベル差の変化についていけず言い損なってしまう。それが「東京特許許可局」の恐ろしさなのだ。