外国語学習の環境も昔とはぜんぜん違いますね。
英語のニュースを読んでいて、単語を押せばすぐに辞書を引ける。作文のときも、ネイティブが使う本物の表現を検索して確かめられる。ゲーム感覚で、初歩から少しずつ表現を学ぶことができるアプリもあります。
こんな状況は、僕が九〇年代末の学生時代に夢見ていたものです。
現代は、まさしく「勉強のユートピア」なのです。
しかしまた、情報が多すぎることで、考える余裕を奪われているとも言えるでしょう。
二〇〇〇年代の末に、SNSとスマートフォンは、生活を劇的に変えました。
今日、スマホを持ち歩く私たちは、どこにいてもネットの「情報刺激」にさらされ、気が散っている。過剰な量の情報が、光や音の連打のように、深く考える間もなくどんどん降り注いでくる。SNSに次々流れてくる話題に私たちは、なんとなく「いいね」なのか、どうでもいいのか、不快なのかと、まず感情的に反応してしまう。すぐに共感できるかどうか。
共感、それは言い換えれば、集団的なノリです。思考以前に、ノれるかどうかなのです。
いま、立ち止まって考えることが、難しい。
溢れる情報刺激のなかで、何かに焦点を絞ってじっくり考えることが、難しい。
本書では、そうした情報過剰の状況を“勉強のユートピアとして積極的に活用し”、自分なりに思考を深めるにはどうしたらいいかを考えたいのです。
そこで、キーワードになるのが「有限化」です。
ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されていくのではなく。
「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。
本書は、「勉強しなきゃダメだ」、「勉強ができる=エラい」とか、「グローバル時代には英語を勉強しなきゃ生き残れないぞ」とか、そういう脅しの本ではありません。
むしろ、真に勉強を深めるために、変な言い方ですが、勉強のマイナス面を説明することになるでしょう。勉強を「深めて」いくと、ロクなことにならない面がある。そういうリスクもあるし、いまの生き方で十分楽しくやれているなら、それ以上「深くは勉強しない」のは、それでいいと思うのです。
生きていて楽しいのが一番だからです。
それに、そもそもの話として、全然勉強していない人なんていません。
生きていくのに必要なスキルは、誰でも勉強します。読み書き、計算が基本ですね。稼ぐには仕事のスキルを覚えなきゃならない。人づきあいがわかってくるのだって勉強です。転職したら、また別のスキルの勉強をすることになる。
人は、「深くは」勉強しなくても生きていけます。