「徹底的に取材しているわけでもない」
さるノンフィクション賞の最終候補作に対し、選考委員が痛烈な批判を加える――。本書は冒頭からスリリングだ。議論の推移を読むにつれ、読者の頭にはある疑問が浮かぶ。そもそもノンフィクションとは一体何なのか?
「執筆の動機はそこにあるんです。ノンフィクションで事実を相手にする時、得てして事実さえ伝えればいいんだという単純な話になってしまいがち。いかに伝えるかという方法論の視点が抜け落ちていて惜しいなあと思っていました」
日本のノンフィクションの黎明期から現代に至るまでの変遷、変質が方法論という明確な物差しで解き明かされる。わが国のノンフィクションの“成立”が1970年代だと喝破するあたりは、本書の読みどころのひとつでもある。
「団塊の世代が大きな担い手だったというのもノンフィクション史の大きな特徴です。政治の季節を知る彼らにとってノンフィクションは一種の自己表現の『物語』でもあった。ところが時代が下るとファクトと読者が直に結びつくことを理想とするジャーナリズム観がノンフィクションにも及び、本来その間をつなぐはずの書き手の透明化が求められているように感じています」
そんな現代の気分を吹き飛ばすような、大宅壮一と沢木耕太郎が放つ強烈な個性が印象的だ。
「大宅はノンフィクションの時代を用意した人物として重要です。書き始めるときはそれほど意識していなかったんですが、大宅に触れる分量が自然と多くなっていって評伝的な性格も多少ある本になりましたね。一方の沢木は方法としてのノンフィクションというものにかなり意識的。ノンフィクションが包含する『物語性』をよく分かっている人だけに読者を獲得できている。2人の存在があったからこそ、この本が書けたという指摘は当たっているかもしれません」
大労作だけに新書版のボリュームが惜しまれる節もある。武田さんの案内でもっと多くの名ノンフィクションに触れたいというワガママな気持ちも出てくる。
「過去には名作を紹介したブックガイドもあるのですが、取り上げられている作品が今の出版事情で手に入りづらい面と、事実を扱うだけに事件そのものが風化してしまう悩みがありますよね。でも方法の議論はできるはず。個々の作品論については、いつか是非やりたいと考えています」
『日本ノンフィクション史』
誰もが意識せず扱う「ノンフィクション」という言葉の成立の経緯や時代との関わりを丹念に調査していく内に、誰も知らなかったノンフィクション史が浮かび上がってくる。戦中の従軍報告、社会派ルポルタージュ、雑誌・テレビのジャーナリズムを経て、ケータイ小説にノンフィクション性を発見する件は刺激的の一言。