思い返せば、ポン・ジュノの過去作『スノーピアサー』(地球の大規模な寒冷化ののち、生き残った人類を乗せた列車の内部における、「前方」と「最後尾」の住民間の貧富の差を描いた作品)のラストは、まさに『パラサイト』とは真逆だった。そこでは、生き残った人類を乗せていた列車が脱線し、崖の下に落下したことによって、列車から放り出された人間たちは必然的に「外の世界」で生きていかざるを得なくなる。つまり、これまでとは大きく異なった新しい生活の基盤、ひいては社会形態を作ることが求められるわけだが、『パラサイト』では対照的に、貧困層のキム家は今までと変わることのない(むしろ以前より悪くなった)、既存の枠組みの中で生きることを余儀なくされてしまうのだ。
「資本主義の終わりを想像するより、世界の終わりを想像することのほうがたやすい」と述べたのは、思想家フレドリック・ジェイムソンだった。この言葉に理があるとするならば、本作のラストはことさらにペシミスティックなものというより、むしろ現代的な、リアリズムに立脚したものであるのかもしれない。
「上」と「下」の格差を表す“メタファー”の豊かさ
ところで、「半地下の家族」とは、日本オリジナルの副題である。「半地下」とは直接的にはキム家の住む、地表からわずかに窓だけが出た住宅のことを指す。韓国ではもともとは北朝鮮からの攻撃に備えた防空壕として建てられ、やがて低所得者向けの住宅として普及していったという。「半地下」について、ポン・ジュノは来日時のインタビューで以下のようにコメントしている。
半地下ということは、別の言い方をすれば半地上とも言える訳です。半地下にいる人たちというのは、地上に出ていって日差しを浴びたいと願っているんですが、一方では下に落ちてしまったら完全な地下に墜落してしまう、その不安も抱えています。「半地下」を強調する邦題は、主人公が置かれているそうした状況をうまく表していると思います。
(『キネマ旬報』、キネマ旬報社、2020年1月上・下旬合併号、p.71 インタビューより)
「日差し」と言えば、はじめてキム家の長男・ギウがパク家を訪れた時、カメラは緑の広がる庭を映し出すとともに、白くきらきらと反射する日光の存在を強調する。これは本作において、これまで画面の主軸であった半地下の住宅から、別世界に足を踏み入れたサインのような効果を醸し出している。
いっぽう、上記の発言において「日差し」の対義語となる、「完全な地下」とはどのような場所を指すのか。本作に立脚して考えれば、陽光が入るか、入らないかということ以前に、Wi-Fiのつながる余地のない場所であるのかもしれない。冒頭、ギウはスマートフォンが(隣家の)Wi-Fiにつながらずに右往左往するが、家のなかでもっとも地上に近い便器のそばで、「ようやくつながった」と安堵する。
インターネットとは、(やや大げさに言うならば)文明社会を生き抜くためにはほとんど必須のツールであり、これを失うことは、(少なくともギウや妹キジョンの世代で言えば)ある階層以上からのシャットアウトを宣告されるに等しい。そうした命綱を維持できるか、ぎりぎりの瀬戸際に立たされているキム家のメンバーは、より良い幸福を夢見てパク家に「寄生」する。『パラサイト』ではその「寄生」のあり方を通して、韓国社会における「上」と「下」の格差を重層的に描いている。
しかし、経済格差を物理的な「上」と「下」に分けて描く作品は、映画史的にもポン・ジュノ的にも、決して目新しいわけではない。では、なぜ『パラサイト』はこれほどの賞賛に値するのか。それはひとえに、表層的なテーマにとどまらない“格差を表すメタファー”のバリエーションの豊かさに起因している。