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(4)「匂い」でも表現された両家の対照性

 両家の対照性は、「上と下」というメタファーで表現されるにとどまらない。「上と下」に次いで重要となるのが、「匂い」の存在である。

 話がやや前後するが、ギテクは運転手としてパク家に入り込むために、前任の運転手にカーセックス疑惑を押し付ける。具体的には、すでにダソンの美術教師としてスカウトされていたギジョンが、送迎中の車内でパンツを脱ぎ、車中の目につきやすい場所に滑り込ませるのだ。これによって運転手は解雇され、ギテクの内部への侵入は成功するのだが、ここで重要となるのが「匂い」で、カーセックスの証拠としてパク家に持ち込まれた、パンツに鼻を近づけたヨンギョは露骨に臭そうな反応をする。ここで最初にキム家の「臭さ」が提示されるが、のちにあるセリフから、キム家のメンバーはこうした「臭さ」を共有しているであろうことが観客に明示される。

 もちろん、その匂いは画面越しに観客に伝わることはないが、この「臭さ」を理解するための補助線として、冒頭のトイレのエピソードが機能する。情報を得るためにトイレに張りついていなければならないような状況では、臭みが体に定着することも無理はないはずだ。さらに言えば、そもそも日光の当たらない湿気の多い室内では、充分な清潔感が確保されるとは想像しにくいだろう。

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『パラサイト 半地下の家族』より

「臭さ」がさらに説得性をもって伝えられるのは後半で、こうしたシーンの繰り返しによって、「匂い」は自明なものとして作中に定着し、ひいては臭みを発するキム家とそれに嫌悪を覚えるパク家という、両者の距離感をさらに浮き彫りにすることともなる。

 こうしたメタファーは、単に「その役割を果たすのみ」に終わらない。たとえば「階段」の場合、映画のサスペンス性やアクションを盛り上げることにもまた寄与する。パク家における階段は死角のような位置にあり、キム家のメンバーがパク家の内部で隠れる際、また聞き耳をする際は階段のわきに忍び込む。また、ある時は自身の敵となる存在を、階段の上から突き落としたりもする。つまり階段は隠れ蓑としても、決闘の舞台装置としても機能するのだが、こうした複数性が担保されることで、設定としてのあざとさは払拭されることとなる。

パク家は「悪人」として描かれていない

 ここまで作中において、目や耳に訴えるかたちで登場するさまざまな「格差」の例を挙げたが、冒頭でも述べたようにこの差は劇中でなくなることはなかった。では、「格差」が残る本作に救いはあるのか。あるとすれば、他者への想像力を伸ばしたことで生まれた、ある「気づき」を提示した点だろう。

 本作においては、パク一家は若干の嫌味っぽさは目につくものの、けっして「悪人」として描かれてはいない。ただ、彼らに「罪」があるとすれば、それは他者への想像力を、ほんの少しだけ欠いていたことである。作中では大雨による洪水で、多くの地理的な「下」に住む市井の人々が、被害を受けてしまうシーンが登場する。多くは体育館らしき場所への避難を余儀なくされるが、高台に住んでいたため、被害のなかったパク家は特に意に介することもなく、それどころか翌日は能天気に(といっても差し支えないだろう)自宅でホームパーティーを開こうとする。

 また、4年近くも生活圏で鳴らされていた、「S・O・S」のモールス信号に気づくことがなく、たんなる電灯の不調ととらえていた点からも、パク一家の想像力の低さは了解できるのではないだろうか。自分たちよりも弱い存在にあまりに無関心であったことが、本作ではまさに取り返しのつかない事態を招いてしまう。

 このモールス信号は、ラストでも大きな役割を果たすこととなるが、その意味に気づいたのはほかならぬ若いギウだった。

『パラサイト 半地下の家族』より

「モールス信号」、いわゆる、声にならないような弱いS・O・Sは、何も映画の中だけに存在するものではない。おそらくは、私たちの日常においても至るところに存在する他者からの叫びに、少しだけ想像力をめぐらせること。そこから得た気づきを、新たな行動の指針とすること。絶望の中にわずかな、文字通りの「光」を見いだしたギウの姿勢は、そうしたことを観客に訴えかけているように思えてならない。