昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

八木亜希子がフジテレビを辞めるきっかけになった、さりげない一言

“テレビっ子”八木亜希子が語るテレビのこと #3

フリーになる前にかけられた「お台場見てから辞めれば?」という言葉

―― 八木さんからご覧になって、最近のアナウンサーの方とかを見ると、慣れてるなとか思うんですか? 

八木 ちゃんとしてるなと思いますね(笑)。私だと最初の頃についた『スーパータイム』のお天気とか、自分なりにちゃんと滑舌の練習をしてやってたんです。上手に読めたと自分では思ってたんですけど、後でVTRをチェックしたら、しゃべり方がすっごく遅いんですよ。私がディレクターだったら最初に話し始めた時点で巻きを出したいぐらい遅くて、ちょっとイライラするみたいな。あと、ヘラヘラしてるんですよ。普通にしゃべってる時に、いろんなことを笑ってごまかすんですね。NGした時にアナウンサーのくせに「アハハ~」とか。はたから見ると殴りたいぐらい(笑)。今、そういう人いないでしょう? だから、そういうのはちゃんとしてるなと思いますね。私は1年生の間にすごく怒られて反省して育っていった感じでしたね。

 

―― フリーになられたのは2000年でしたよね?

八木 12年間フジテレビに勤めて退社しました。会社勤めされている方なら、きっと「辞める辞めない」って話は、日常会話でするじゃないですか。「辞めたいな」「転職して他の仕事ないかな」的な夢というか妄想? 同期が次々と辞めていったりして、私もそんなこと思ったり人に話したりしていたんですけど、そういうときに誰かが「お台場見てから辞めれば?」って言うので、「それもそうかな」なんて思って。フジテレビが河田町からお台場の新社屋に移転したのが97年だったので、そこから3年ばかりお台場に通ったことになりますね。

――フジテレビでの最後のお仕事はどんなものだったんですか?

八木 夕方の「スーパーニュース」です。2000年の3月31日なんですけど、この日の午後に北海道の有珠山が噴火して慌ただしく生中継を挟みながらニュースをお伝えしました。スタッフが私に内緒で「思い出VTR」を用意してくれてたんですけど、そういう日でしたから当然ながら放送は無くなっちゃったんです。

スタッフが悪ノリして作っていた『ビデオの王様』での演技

―― フリーになられて、アナウンサーとしてのお仕事はもちろん、驚かされたのは女優としてのお仕事です。まずは脚本家の三谷幸喜さんから映画のお声がかかったと思うんですけど。 

八木 三谷さんは『めざましテレビ』の頃からインタビューさせていただいたり、交流があったので、「またまた~」みたいな感じで、最初スルーしてたと思うんですよね。で、正式に『みんなのいえ』のオファーが来て、「いやいや、無理ですから」みたいになったんだけど、プロデューサーの方たちや、三谷さんのマネージャーさんもいる席で依頼をされて、「あ、本当なんだ」と思って、「大丈夫でしょうか……?」っていう感じで探り探り話を進めさせてもらいました。

―― 演技自体はどれぐらいぶりだったんですか? 

八木 大学のミュージカル研究会以来といえばそれ以来なんですが、ただ、入社して3年目か4年目ぐらいまで、実は深夜番組のビデオの情報番組で、コントドラマみたいなのをやってたんですよ。笠井信輔さんと。

―― 『ビデオの王様』?

八木 そうそう。『~王様』『~女王様』と、『満月ビデオ御殿』って、3シリーズぐらいあるんですけど。普通の情報番組だったのに、いつの間にかドラマ仕立てになって、悪役商会の八名信夫さんとかも出てくださったりとかしてて。今思うとあれはいい経験だったなと思うんです。あの番組は当時のスタッフが悪ノリして、ちゃんとドラマと同じように香盤表を作ったりしてたんですよ。「これ、『東京ラブストーリー』から借りてきた香盤表」みたいな感じで参考にして、香盤表の下にそれぞれの入り時間とか書くのを、そっくりに真似してやったりしてましたね。番組でも『東京ラブストーリー』のパロディーをやったこともありましたけど。

―― じゃあ、演技はやっていた。

八木 それ、演技って言えるのかな?(笑) アドリブもいっぱいでした。一応ストーリーは決まってて、「こんにちは」って訪ねてきてから、フリートークを適当にして、「じゃあまた」っていうところだけ。入りと出だけ決まってる。そのぐらいの感じだったと思うんですけど。

―― 結構高度ですよね。

八木 だんだんストーリーに凝っていったりもしたんですけど。