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「死んでも枕元で怒鳴る」57歳になった俳優・松重豊が今も恐れる“あの演出家”

2020/01/19
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 果たして『孤独のグルメ』は好評を博し、シリーズ化された。残念ながら溝口監督は昨年3月に急逝したが、シリーズは後進のスタッフたちに引き継がれ、この年10月期のSeason8に続き、大晦日には毎年恒例のスペシャル版も放送された。同作は松重にとって初の主演ドラマであり、これをもってブレイクを果たしたと紹介されることも少なくない。しかし、そういう言い方はすでに30年以上ものキャリアを持つ俳優に対し失礼な気もする。

中華料理バイトで一緒だった“あの大物ミュージシャン”

 松重は明治大学在学中より演劇活動や映画の自主制作を始めた。このころ一緒に映画を撮っていた日本大学藝術学部の学生のなかには三谷幸喜もおり、しばらくして彼が劇団「東京サンシャインボーイズ」を旗揚げすると松重も参加している(※3)。また、学生時代に下北沢の中華料理屋でバイトしていたときの仲間には、ミュージシャンの甲本ヒロトがいたという。最近のインタビューでも松重は、役者を続けるうえで心の支えや励みになっているライバルとして甲本の名をあげ、《彼はいまもガリガリに痩せていて、ステージで腹を出すじゃないですか。こっちもいくら食べる仕事をやっても、あれには負けたくない(笑)》と語っている(※4)。事実、松重は体型を維持するため、毎朝犬の散歩で6キロ歩くほか、体操や腹筋ローラーを欠かさない(※5)。

事務所HPの情報では身長188cmだという松重 ©文藝春秋

 大学卒業後の1986年、演出家の蜷川幸雄主宰の「蜷川スタジオ」に入り、実験的な作品や海外公演にも参加しながら芝居の基礎を一通り身につけた。当時、蜷川の演出作品をプロデュースしていた中根公夫は、このころの松重について《丈高く、しかし背を丸めてはいず、頬は削ぎとった様にこけて、荒々しい大きな声とギラギラ光る飢えた獣の様な目を持っていた。いつも反抗的で粗野なのに、底にデリケートな優しさを秘めた、この役者に私は将来期待するものがあった》と記している(※6)。

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俳優業をやめ、建設作業員をしていた

 そんなふうに周囲から嘱望されながらも、松重は3年半ほど在籍した蜷川スタジオをある日ふとやめてしまう。本人は後年、このときのことを《暑い夏でねえ。あまりにも暑くって、稽古場じゃなく目黒のプールへ行っちゃったんです。ああ、こうして人って何かを失っていくんだなぁ……と思いつつ泳いでましたね》と語っている(※7)。中根公夫によれば、それは『近松心中物語』のロンドン公演前の稽古中のことで、松重は《蜷川のダメ出しに猛然と反発し、翌日から公演を降りて、スタジオもやめてしまった》という(※6)。彼のなかでは、《小劇場では生活ができないし、かといって商業演劇は芝居の本質が違う気がした。まぁ、若気の至りなんですけれども、芝居を職業にすることに対して、自分の中で整理がつかなくなってしまった》と葛藤もあったようだ(※3)。