果たして『孤独のグルメ』は好評を博し、シリーズ化された。残念ながら溝口監督は昨年3月に急逝したが、シリーズは後進のスタッフたちに引き継がれ、この年10月期のSeason8に続き、大晦日には毎年恒例のスペシャル版も放送された。同作は松重にとって初の主演ドラマであり、これをもってブレイクを果たしたと紹介されることも少なくない。しかし、そういう言い方はすでに30年以上ものキャリアを持つ俳優に対し失礼な気もする。
中華料理バイトで一緒だった“あの大物ミュージシャン”
松重は明治大学在学中より演劇活動や映画の自主制作を始めた。こ
大学卒業後の1986年、演出家の蜷川幸雄主宰の「蜷川スタジオ」に入り、実験的な作品や海外公演にも参加しながら芝居の基礎を一通り身につけた。当時、蜷川の演出作品をプロデュースしていた中根公夫は、このころの松重について《丈高く、しかし背を丸めてはいず、頬は削ぎとった様にこけて、荒々しい大きな声とギラギラ光る飢えた獣の様な目を持っていた。いつも反抗的で粗野なのに、底にデリケートな優しさを秘めた、この役者に私は将来期待するものがあった》と記している(※6)。
俳優業をやめ、建設作業員をしていた
そんなふうに周囲から嘱望されながらも、松重は3年半ほど在籍した蜷川スタジオをある日ふとやめてしまう。本人は後年、このときのことを《暑い夏でねえ。あまりにも暑くって、稽古場じゃなく目黒のプールへ行っちゃったんです。ああ、こうして人って何かを失っていくんだなぁ……と思いつつ泳いでましたね》と語っている(※7)。中根公夫によれば、それは『近松心中物語』のロンドン公演前の稽古中のことで、松重は《蜷川のダメ出しに猛然と反発し、翌日から公演を降りて、スタジオもやめてしまった》という(※6)。彼のなかでは、《小劇場では生活ができないし、かといって商業演劇は芝居の本質が違う気がした。まぁ、若気の至りなんですけれども、芝居を職業にすることに対して、自分の中で整理がつかなくなってしまった》と葛藤もあったようだ(※3)。