6月4日は中国に関心が深い人にとっては特別な日だ。1989年のこの日未明、当時の中国共産党指導部は北京市内で政治改革を訴える市民や学生に対して、人民解放軍を投入して武力弾圧をおこなった。おそらく数千人規模の犠牲者を出したと見られている。日本でバブル経済のまっただなかに起きた事件は、日本人の中国観にも大きな影響を与えた。現在アラフォー以上の年齢の人にとってはいまなお印象深い出来事であるはずだろう。
だが、はや事件から今年で28年。当時、天安門広場に集まっていた学生たちも、すでに50歳近くになっている。当時のデモ隊のなかで特に有名だった4人について、「あの人は今」的に現在の動向を追ってみよう。
1.「民主の女神」柴玲
天安門事件の関連人物として日本人のなかで最も有名なのは、女子学生の柴玲だ。学生たちが天安門広場に座りこんでいた期間(1989年4月17日ごろ~6月4日未明)の終盤、「防衛天安門広場指揮部」のリーダーに就任。ほか、感動的な内容の演説でも知られている。たとえば、6月4日の未明に広場から撤退する際、以下のような話をしたとされる。
「高い山の上に暮らす11億のアリの群れがいました。ある日、山が火事になってアリたちは山を出なければ助からないとわかりました。そこであらゆるアリたちは集まって大きな球を作り、転がって山を降りました。外側にいるアリたちはみんな焼け死にましたが、なかにいるアリたちは生き延びることができました。今夜、わたしたちはこの『外側のアリ』なのです。私たちの犠牲が中国をふたたび蘇らせるでしょう」(大意訳)
この話は小林よしのりが作品中で引用するなど、当時の日本にも相当なインパクトを与えた。柴玲は事件当時23歳の可憐な外見もあって、天安門のヒロインとして世界的な知名度を持ち、1989年と1990年にはノーベル平和賞候補にも挙げられたとされる。
ただし、民主の女神・柴玲のその後はパッとしない。彼女はフランス亡命後に同じく天安門闘士だった夫と離婚、やがてアメリカに移住して、現地の男性と結婚してIT企業の創業者となり、民主化運動の表舞台にあまり出てこなくなった。カーマ・ヒントンのドキュメンタリー映画『天安門』(米、1995年)で、「私たちが期待したのは流血だった」「広場が血の海になってこそ全中国人はやっと真の意味で目覚めて団結するだろうと考えていた」と発言して物議を醸したこともある(柴玲は同映画の内容について名誉毀損で告訴したが、2013年に敗訴している)。
また、彼女は2009年にキリスト教の福音派に改宗。2012年の6月4日に、宗教的信念に基づいて「私は彼らを赦す」と題した文書を中国語と英語で発表している。そのなかで「私は(鎮圧を指示した)トウ小平と李鵬を赦す。私は兵士たちが1989年に天安門広場に進撃したことを赦す。私は現在の中国の指導者のもとで、自由を抑圧して残酷な一人っ子政策を実行し続けていることを赦す」と述べたことで、かつての他の同志たちや事件の遺族の猛反発を招くことになった。
柴玲は現在、ボストンで中国国内の女性や子どもの人権擁護を訴えるNGO「All Girls Allowed(女童之声)」を主宰しつつ、IT企業の経営陣の1人として暮らしている。天安門当時、紅一点のリーダーだったことで仲間たちに担ぎ上げられ、本人の資質以上の役割を担わされてしまったことが、後の迷走の一因なのかもしれない(こちらについては譚ロ美『「天安門」十年の夢』(新潮社、1999年)収録の「『民主の女神』との十年」に詳しい)。