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「盤上で倒れてもよい」闘志の棋士・松田辰雄八段が燃え尽きるまで

「盤上で倒れてもよい」闘志の棋士・松田辰雄八段が燃え尽きるまで

忘れられた棋士の記録をふりかえる

2020/02/09
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40度近い高熱を押して対局

 第3期順位戦が始まった昭和23年は松田の全盛期であった。順位戦では7勝2敗の成績で2位となり、名人挑戦者決定戦に進出。棋界最高勝継ぎ戦では5人抜きを達成し、名人と記念対局を行う。升田幸三八段に2連勝、大山八段には4勝1敗と大きく勝ち越す等内容も良く、山之内製薬が主催した青空将棋大会(人間駒将棋)が甲子園で行われた際、3万人の観衆を前に大山の対戦相手を務め見事に勝利。名人候補として知られるようになる。

 翌24年に行われた名人挑戦者決定戦では、五十嵐豊一七段に勝ち、木村義雄前名人と名人挑戦を争う三番勝負を戦った。1局目は逆転負け。2局目では40度近い高熱を押して対局をしたが、文字通り燃え尽きたような棋譜を残し惨敗。惜しくも名人挑戦はならなかった。

松田八段が名人挑戦者決定戦に進出したことを伝える1949(昭和24)年2月10日付「大和タイムス」(資料提供:国立国会図書館)

 体調が悪い状態でその後も指し続けていたが、木村に負けた1ヶ月後、原田泰夫八段との対局直後に決定的に体調を崩し倒れてしまう。連日40度の重態から意識を取り戻し容態は安定したものの、将棋を指せる状態ではなく休場。その後は調子の良い時に新聞棋戦を指したが、順位戦に復帰できる程体調が戻る事はなく、昭和30年1月14日、肺結核により逝去。享年38歳。

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師匠譲りの闘志を前面にしたスタイル

 松田辰雄八段は闘志の人であった。「目の怖い人」というのが松田を紹介する際の東京方の棋士の評価である。対局となると表情が変わる様子を、関本三猿子が描いている。

〈らん〳〵と輝く眼光、男性的なやゝ釣上つた太い眉、への字に結んだ口……松田八段は見るからに闘志に満ち溢れているかのようだ〉(關本三猿子「東西俊豪の決戦 北楯八段對松田八段」将棋世界、1949年3月号)

 松田の顔写真や似顔絵がいくつか残っているが、鬼瓦のような怖い顔をしているものもあれば、全く違う表情をしているものもあり、これが同一人物か、と思うほどである。

 指す際も、盤に叩きつけるかのように激しく打据えたという。石山賢吉は駒音が高い棋士として、升田幸三・原田泰夫とともに松田の名を挙げている。

©文藝春秋

「徹夜名人」とも呼ばれた。順位戦等の対局が終わった後、夜が明けるまでそのまま将棋を指し続け、東京方の棋士を破った事からその名がつけられた。昭和23年に全日本選手権で大山と戦った際は、前日の対局終了後朝まで升田と感想戦を行いそのまま寝ずに指すという、冷静に考えると無茶な事をしている(同年、大山に負けた唯一の将棋)。

 このような闘志を前面にしたスタイルは、師匠の神田辰之助九段譲りだったようだ。眼の色変えて将棋を指し、一旦負けが込むと夜が明けるまで対局を続ける闘将神田の闘志が自然反映せざるを得ない、といった内容の随筆を『将棋新聞』に寄稿している。