当然ながらそんなことをいくらやったところで、いつまでたっても歩けるようにもならないし天才にもならない。「それはお前にやる気が無いからだ」ということでまた殴られるのだが、これは半分正しい。意外かもしれないが、そもそも生まれつき歩けない私は、「歩けるようになりたい」とか「歩けなくても代わりに天才になりたい」などと自分から思ったことは一度も無いからだ。
「歩けるようになりたいか?」と聞いてくるのはいつも親だった。私は間髪入れずに「はい、歩けるようになりたいです」と答える。でないと殴られるからだ。私が歩けるようになりたいのではなく、親が私を歩けるようにしたいだけであるにも関わらず。
「何かをできること」にこだわる価値観から、私たちは自由か?
FCによって意思疎通を図ろうとする支援者、ドーマン法や異常な早期教育にこだわった私の両親、そして植松被告。三者に共通する根本的価値観は、「障害者が何かをできること」にこだわり、そこに「命の価値」を結び付ける考え方である。端的に言えば、三者とも、障害者に最も近い場所に居ながら、優生思想を内面化してしまっている人達であるということに他ならない。
もちろん、三者の悪辣さが同程度だというつもりは全く無い。それでも、内なる優生思想を克服しない限り、誰もが私の両親のようになり得るし、もっと言えば植松被告のようにもなり得ることを肝に銘じるべきだ。
長くなったが、そろそろ冒頭で示した問いに対する私なりの回答を示したい。「意思疎通できない障害者には生きる価値がない」に対する応答は、決して「いや、この人達も意思疎通できているかもしれない」であってはならない。「意思疎通の可否と生きる価値は関係がない」であるべきだ。前者と後者では、言っていることは全く違う。ここを絶対に間違えてはいけない。その理由は、ここまでお付き合いいただいた皆様にはお分かりであろう。
私は、全ての命に価値があるという信念を曲げない。日々の生活の中で常に色々な物差しで優劣を判定され続けるこの社会では、私もついその信念を見失いそうになる。それでも、いくらきれいごとだと言われようと、命の価値にいかなる留保条件もつけたくない。そのきれいごとが力を失った社会では、もはや誰も生きることを許される保証はない。私も、そして、あなたも。