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「歩けないのはやる気が無いからだ」 虐待された障害者の私が、植松被告に覚える既視感

2020/02/04
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FCの有効性を否定した実験って?

 障害当事者と、普段からFCによって当人の意思を代弁している介助者のペアが被験者である。まず、2人をそれぞれ別の部屋に入れ、障害当事者にAという物体を見てもらう。一方、介助者には、Bという別の物体を見てもらう。その上で二人を一緒にして、障害当事者に対し、「さっきあなたが見たものを答えて下さい」と問いかけ、それに対する応答を、介助者がFCによって代弁する、というものである。

 FCが正しい手法であれば、難なく「A」と答えられる筈である。ところが実際には何故か、当事者が目にしていない物体であるはずの「B」という答えが返ってきてしまうのである。つまり、介助者は障害当事者の意思を読み取ることなどできておらず、単に介助者が障害当事者の腕を動かして自身の言葉を表現しているに過ぎないことが明らかになったのだ(注2)。

 こうした研究に対するFC擁護派からの反論、及びそれに対するFC批判派からの再反論などをここで詳述することは本稿の趣旨から逸れるため割愛する。興味のある方は是非ご自身で双方の主張を比較した上で判断して欲しい。

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 これらを踏まえた上で私個人の結論を述べれば、各学会の声明と同じく、FCが障害当事者の意思表出手段として適当であるとは到底考えることができない。よって以降、本稿では筆者はFCに批判的なスタンスから記述していることをご了承いただきたい。

「少しでも可能性があるなら」という善意が否定されるべき理由

 FCを肯定する意見の中には、「FCが科学的に疑義があるものだとしても、そこに少しでも障害当事者の意思を読み取れる可能性があるならば良いことではないか」というものもある。もちろんこの意見が少しでも障害当事者の意思を汲み取ろうとする善意から発せられていることは理解できるし、そうした心情には多少なりとも共感できる部分もある。しかし、私はこの立場も取らない。何故なら、FCが仮に誤った手法であった場合、二つの甚大な悪影響があるからだ。

 一つ目は、障害者の周囲の人間を傷つける可能性があること。1990年代のアメリカでは、FCによって数十件もの虚偽の虐待の告発がなされ、何の罪もない多くの障害者家族が計り知れない社会的・精神的ダメージを被った(注3)。これはFCに含まれうる介助者の恣意性が実害を伴って顕在化した事件と言えるだろう。

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 二つ目は、より重要な点だが、障害当事者本人の尊厳を踏みにじっている可能性があることだ。障害当事者が意思を表出する手段は、何も言語的なものだけとは限らない。表情、体の動き、声、全てが重要なシグナルである。現に、FCに依らずとも、それらを丁寧に読み取ることで、可能な限り本人の意思を汲み取ろうと日々地道に取り組んでいる介助者はたくさんいる。

 FCという極めて疑わしい手法に時間を割くことで、前述のような丁寧な関りがおろそかになりはしないだろうか。その結果、重要な意思決定が本人の意図しない形で行われているのだとしたら、非常に憂慮すべきことである。

 また、仮に本人の意思が全く読み取れない場合でも、本人にとって最善と思われる決定を周囲が周囲の責任において行うのと、本人が思っているかどうかわからないことを「本人が言ったこと」にしてそれを理由に行うのでは、結果的に同じ決定をするのでも全く違う。後者は、あえて強い言葉で言わせてもらえれば、一人の人間への冒涜である。

注2……FCの有効性に関する実験をメタ的に分析した論文は、Jacobson, Mulick, & Schwartz(1995)Mostert(2001)等いくつもある。

注3……代表的な例として、ウィートン事件が挙げられる。1992年、16歳の自閉症の少女ベッツィの介助者であったジャニス・ボイントン氏は、FCによって得られた内容に基づき、ベッツィの家族であるウィートン家がベッツィに対し性的虐待を行っているとの虚偽の告発を行った。同氏は後に誤りを認め、事件に至る経緯についての介助者側からの貴重な証言を残し、FCに警鐘を鳴らしている。