解釈改憲を強行する安倍総理の情念
安倍総理は自民党幹事長だった二〇〇四年一月、外交評論家の岡崎久彦氏と共著で『この国を守る決意』という本を出しています。安倍総理がこの中で書いているのは、「祖父の岸信介総理が行なった安保改定は、アメリカの防衛義務を定めたことで、時代的制約の中で最大限の努力を果たした。自分の世代には、自分の世代の歴史的使命がある。それは、日米同盟を完全な双務性にしていくことだ。アメリカが血を流すなら、日本もアメリカのために血を流して初めて、日米は対等になる」という論理です。つまり、北朝鮮や中国の脅威は後付けの理屈で、本音は、「十年前からこれをやりたい。だからやる」という情念なのだと理解するほかありません。
安倍総理がこの本を書いた〇四年は、アメリカはイラクとアフガニスタンで泥沼にはまっていた時代で、アメリカは本当に困っていましたから、こうした発言も受け入れられたし、期待もされたでしょう。しかし、現在の状況は大きく変わっています。
それでも執拗に集団的自衛権行使の容認にこだわるのは、アジアの大国の地位を中国に奪われた日本が、自信喪失の裏返しとして、ナショナリズムを高揚させようということではないかと思うのです。尖閣の争いの本質も、資源の争奪や軍事的優位の確保といった問題でなく、日中双方のナショナリズムの衝突だと私は思っています。だからこそ、妥協が難しい。
集団的自衛権行使の容認は、過去六十年の憲法秩序と国の姿を大きく変えることを意味します。だから、きちんと民主主義の手続きを踏まなければなりません。「九条を改正したいから、まず九十六条を改正する」と言っていたほうが、まだ筋がよかった。それでも「裏口入学だ」と批判されたわけですが、今回の解釈改憲はもっとひどい。入学試験さえ受けず、勝手に教室で授業を受ける「もぐりの学生」のようなものです。
私自身が行使に反対する動機は、官房副長官補として担当した自衛隊のイラク派遣です。イラク戦争後、日本は初めて陸上自衛隊を人道復興支援のためにサマワへ派遣しました。これが原点なのです。これは防衛官僚として生きてきた中で、一番ストレスフルな仕事でした。もし隊員から犠牲者が出たらどうする、そう考えると、眠れない日々が続きました。日本が集団的自衛権を行使できる立場になり、アメリカがまたイラク戦争のような戦争を始めた場合、こんどは戦闘への参加を断われないでしょう。もし断わったら、それこそ日米同盟は崩壊します。
今度ははっきりと、犠牲を想定しなければいけない状況になるわけです。そのときに一体、何をもって日本の国益と定義し、何をもって国民の理解を求め、何をもって自衛隊員に「死んでこい」と言うのか。
あやふやな根拠では、自衛隊も戦う覚悟はできません。その覚悟は、国民から支持されているという自信から生まれます。安倍政権が、集団的自衛権を行使することが正しいと信じるのであれば、まず国民に向かって、憲法そのものを改正する議論をすべきです。その危機感の持ち方が正しければ、日本の国民は理解するはずです。
今の憲法九条解釈は誕生の経緯からして、複雑な背景があります。昭和二十七年、日本が独立を回復すると同時に日米安保条約も発効しましたから、最初から、憲法九条と自衛隊、米軍基地は矛盾を孕んだまま存在していたわけです。そこを解釈でしのいできたのですが、それを打ち破るだけの理由があるのか。私はないと思っています。
安全保障の問題は、国民の生命に直接係わります。憲法解釈という政府の権限だけでものごとを処理していくことは、立憲主義の精神からみて、到底許されることではありません。
【石破茂さんによる「ナショナリズムの衝突は回避できるのか (1)」はこちら】