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次官レースを制して“防衛庁の天皇”が生まれるまで

 とはいえ、時代とともに防衛庁にも生え抜きの官僚が育ってきた。そのもっとも有名な例が、良くも悪くも、防衛省発足時に初代事務次官に就任した守屋武昌(1971年入庁)である。

『月刊官界』のグラビア「新事務次官」で紹介される守屋武昌防衛事務次官(当時)

 守屋は、民間企業をへて入庁したため、「異色」の官僚といわれる。課長時代から「行動力抜群」「すぐやる課長」「体格に似合わず、細かいところまで気が付く」などと評判を博し、政治家受けもよく、いつしか「将来の次官候補」との呼び声が高くなった。

 防衛政策課長としては1995年の新防衛大綱策定の中核を担当。沖縄の米軍基地問題では、対米交渉の先頭に立ち、タフネゴシエーターとして「米国でもっとも名の売れた防衛官僚の一人」となったという。こうしたことは専門性があればこそだ。

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 もっとも、守屋は無人の荒野を行くがごとく次官まで登りつめたわけではない。かれの時代には、ほかにも優秀な生え抜きが存在した。

 そのひとりが、官房長などをつとめた柳澤協二(1970年入庁)である。柳澤は秀才型で、制服組・背広組問わず評判がよく、『月刊官界』上で気持ち悪いほどつねにべた褒めされた。

 その発想も柔軟かつ大胆で、広報課長時代には、広報誌『防衛アンテナ』を一新して『セキュリタリアン』と名づけ、「あなたの自衛官度チェック」「防衛庁OL委員会」などユニークな企画の掲載を後押ししたという。

『月刊官界』の各省庁官房長を紹介するグラビア「霞が関の“大番頭”たち」に登場したときの柳澤協二、守屋武昌官房長(当時)

 守屋は、こうしたライバルを蹴落として、2003年に次官レースを制したのである。異例にも4年間その職にあり、海千山千の自民党の国防族を圧して「防衛庁(省)の天皇」といわれるほどの権勢を振るった。退任に際して、人事をめぐり揉めていた小池百合子防衛大臣(現・東京都知事)を道連れにしたことはよく知られている。

 守屋は、防衛官僚の新しい姿を世に示した。ただ、収賄事件で晩節を汚し、悪い意味で有名になってしまった。

 他省庁でもそうだが、「〜年度組のエース」などと呼ばれる官僚は順当に出世するのにたいし、「異色」「異能」と呼ばれる官僚はなにかを仕出かすケースが少なくない。前回取り上げた文部省の高石邦男もしかり、守屋もまたしかりだった。

 このような不祥事はあったものの、安全保障の重要性が高まるなかで、防衛官僚も生え抜きがますます増え、専門家集団に変わってきているのも事実だ。やがて防衛官僚についても、その性格を適切に示すキャッチフレーズが生まれるにちがいない。

「しろうと官庁」から脱却したのに、政治家が足を引っ張っては話にならない

 2007年1月、防衛庁は防衛省に昇格した。その後、懸案の制服組と背広組の関係の見直しも進められつつある。

 だからこそ、文官統制ならぬ文民統制の要である防衛大臣の役割がなににもまして重要になってくる。ようやく「しろうと官庁」から脱却したのに、政治家が素人臭い言動でたびたび足を引っ張るようでは話にならない。

 一部報道によれば、安倍晋三首相は、みずからが取り立てた稲田氏を守りたいとの意向があるともいう。だが、お仲間を優先するのか、それとも安全保障を優先するのか、答えはおのずから明らかなはずだ。

 つぎの問題発言も目睫の間かもしれない。せっかく育った専門家集団をくだらない尻拭いにこれ以上用いるべきではあるまい。