自分に詩心がある方だとは思えないけれど、いくつか好きな詩がある。例えば、エドガー・アラン・ポーの「大鴉」。特に、あの、あまりに有名な一節が好きだ。
……大鴉は言った。Nevermore(またとない).
ふとしたきっかけで頭の中でその一節が響く。何か大きな出来事があった時とは限らない。どうということのないはずの日常的な出来事、少なくともそうとらえ得る諸々の中に、「もう後戻りできないのだな」とふと感じる時、その言葉が響く。
歴史は繰り返す、とはよく言われることだ。ほとんど変り映えのない出来事が繰り返すことも多いのは確かだが、決定的に不可逆なそれもある。例えば本書に出てくる「原子の瞬間」。自分たちを何回でも絶滅させられるだけの火力を得、核を分裂(あるいは融合)させて物質から無限のエネルギーを取りだす「核の時代」へのドアを開いた瞬間。「それ以後」と「それ以前」では世界の形がすっかりと変わってしまう出来事。
本書の重要な時代背景は「インターネットの登場」と、またそれにまつわるデジタル技術の爆発的進化だ。「原子の瞬間」と同様の根底的な世界の変容を導くテクノロジ、その光と闇をリアルタイムで目撃した著者、エドワード・スノーデン氏の自伝である。彼については今更説明する必要はないだろう。アメリカ政府による「大量監視システム」の存在をリークして、国家を敵に回した男。その彼が多くのリスクを冒して、なぜ行動に出たのか、その生い立ちから決行、そして後日談までが克明に語られる。
パソコンだけではなく、今やあらゆるものがネットにつながっている。鉄道の改札、映画の予約システム、コンビニでの購入履歴。洗濯機だってネットに繋がっている。いつどこで誰が何をしたのか、現代人の多くの行動が履歴としてどこかに残っている。それはとうの昔に予見された未来で、そしてその予見には既存の最大の権力機構である「国家」による監視も含まれている。
僕が大学を卒業して、社会に出たのは2003年のことで、当時のビジネス環境は「WEB2.0」という流行り言葉(バズワード)をスローガンにして、二度目のITバブルに向かう最中だった。振り返ってみればITビジネスにとっては、未だ黎明期だった。そして揺籃期の業界の御多分にもれず、そこには既存の社会にうまく適応できない、適応するつもりがない人々が溢れていた。僕もそうだったし、スノーデン氏もその一人だ。肩書や社会階級を抜きにして、有能な彼はデータ上の権限(パーミッション)の上で世界の中枢に触れる位置にいった。そのあまりに早いランクアップが、少年の理想を抱いたままの彼を、世界の進展の不可逆な地点に立たせた。
否応なしに我々をもみくちゃにする世界の流れ、その濁流の浮島に居合わせ、くさびを打ち込もうとした、弱弱しい個人の、“またとない”記録だ。
Edward Joseph Snowden/米・ノースカロライナ州エリザベスシティ生まれ。システムエンジニアとして訓練を積み、CIA職員となって、NSA契約業者として働いた。現在はロシア在住。
うえだたかひろ/1979年、兵庫県生まれ。作家。2019年、「ニムロッド」で芥川龍之介賞受賞。近著に『キュー』など。