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行政による公共サービスでさえ、決して「無償」ではない

 ところで、普段私たちが人に対して何かをしてあげる時、直接的にせよ間接的にせよ、何らかの見返りを期待するものだ。労働や財・サービスをして金銭をもらうのが一番わかりやすいが、そうした金銭を介したものに限った話ではない。例えば一見無償で人に奉仕したり親切にしているように見える場合でも、やはり心のどこかで無形の対価を求めてしまうものだ。

 それは、将来的リターンへの期待かもしれないし、相手の歓心や恩義や感謝かもしれないし、自らの自己顕示欲や名誉欲の充足かもしれない。私たちは無意識のうちに、行為の対象となる相手からどれだけの便益を引き出せるか、冷徹に値踏みしているのだ。つまり、人間を目的ではなく手段として扱ってしまっている。言い換えれば私たちは、互いに相手を便益を引き出すための道具として扱っているということだ。

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 行政が行う公共サービスも、決して無条件の一方的贈与ではない。子どもに対する教育や医療・福祉を例に取ってみても、それを行うことで将来子どもたちを優良な労働力・納税者にしようという側面があることは否定できない。また、健康で優良な国民を育成することは、将来的な生活保護費・医療費・介護費などの社会保障関係支出の削減につながるという思惑もあるだろう。筆者は元公務員であるが、税金を投入する以上、コストに対してどの程度のリターンがあるかは一定程度必ず精査されるし、目的指標の設定がない政策というものはありえない。

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 かつて、特定の人々を「生産性が無い」と貶める発言で炎上した政治家がいたが、これは人間を目的ではなく道具として見る意識が顕在化した分かりやすい例だ。しかし、どのような物差しを用いるかに多少の違いはあるにせよ、私たち一人一人も、公共セクターも、人間を多かれ少なかれ道具としての有用性で測る傾向があることは心に留めておくべきだろう。

 しかし、TCHのスタッフやボランティアは違う。この施設の利用料は無料であり、行政からのインセンティブもない。もちろんいくばくか給与を得ている人もいるだろうが、少なくとも、子どもの一つ一つの願いを叶えてあげることが、直接的に経済的利益を生み出すわけでは全くない。