それだけではない。残念なことではあるがTCHの子どもたちは、平均的な子どもたちと比べ、成人前に亡くなってしまう可能性が圧倒的に高い。従って、優良な労働力や納税者を育成するためにやっているわけでもない(注)。ではなぜ、あそこまで必死に子どもたちの願いを叶えるために奔走できるのか。雪遊びを行うために、60万円の費用と、2年という歳月、そして膨大な労力を注ぎ込むことができるのか。
それは、子どもたちを、人間を、命を、手段ではなく目的として捉えているからだ。たとえ短く終わってしまう命であっても、その子の主観的な喜びが増えること、人生が充実したものになることに、意味があると本気で信じている。それはとりもなおさず、命自体に価値を認めているということに他ならない。
「自分はいないほうがいい人間なのだ」という負債感が軽くなった
唐突な自分語りで恐縮だが、筆者は介護・医療費など合わせて月間数十万円の税金を投じられることでかろうじて生かされている。公務員時代でも手取りは約20万円、ライターの今では収入は更に低く、結果として納税額は雀の涙ほど。「生産性」で言えばマイナスもいいところだ。口では「関係ない、なんともない、気にしない」と強がってみても、心の隅では「自分がいることで社会に迷惑をかけている」「自分は本当はいないほうがいい人間なのだ」という負債感を抱えてきた。しかし、TCHと関わるようになってから、そうした心の中の錘が少しずつ軽くなりつつあることを実感している。
TCHのスタッフからもらった贈り物が自己肯定感のようなものだとすれば、TCHの子ども達から学んだのは「生きる」ということに対する真摯な姿勢だ。
注……もちろん、全ての子どもが幼少期に亡くなるわけではない。また、誤解の無いように言っておくと、TCHでは子どもの「成長」も非常に重視している。ただ、それは子どもたちを有用な人間に育成するために型にはめて躾けるような姿勢とは全く異なる。