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思い返すと、「生産性」云々よりも恥ずかしいこと

 彼らは、人間の生が有限であることや、生には苦しみが付きまとうことを私たちにはっきりと示している。しかしそれは決して彼らのみが抱える問題ではなく、程度の差こそあれど、私たちも共有している問題である。当然、筆者自身もいずれは死にゆく存在であるし、障害・虐待・度重なる手術など、人並みには辛い人生も送ってきたつもりである。しかしTCHの子どもたちは、病に起因する苦痛や死への恐怖に直面しながらも、いや、それだからこそより一層、短いかもしれない生涯の一瞬一瞬を楽しむことに真剣だった。

 生と死は表裏一体である。筆者がお会いしたご遺族の一人は、お子さんが、亡くなる直前まで、最期までやりたいことを伝えてくれたことに感銘を覚えたという。子どもたちは「今を生きる」を意識した時間をTCHで過ごしている。

 翻って自分はどうか。日々の暮らしの中で、与えられた命の有限性に思いを馳せ、本当に自分がやりたいことを真剣に考える機会を、どれだけ持てていただろうか。「つらい、死にたい」と口癖のように嘯きながら、その実、死を直視したことなど一度も無かったのではないか。裏返せば、一人の人間として、命の主体として、自分の生に積極的な意味を見出そうとすらしてこなかった。「生産性」云々よりも、そちらの方こそよほど恥ずべきことだったように思う。

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彼らがやりたいことをやるために

 この文章が「文春オンライン」に掲載されれば、私には原稿料としていくばくかが支払われるはずだ。今回だけは、その全額を握りしめてこどもホスピスに持って行こうと思う。それは、月数十万円の税金を使って生きている私の、その何十分の一かの、偽善と自己欺瞞と名誉欲と自己顕示欲にまみれたお金かもしれない。しかし全く無意味だとも思わない。そのお金がどう使われてもいい。絶対に無駄になることは無いと確信しているからだ。死と表裏一体の生に誰よりも真摯に向き合い、命の価値を体現する子どもたち。彼らがやりたいことをやる。そのために費やされるよりも有益なお金の使われ方を、私は知らない。

 この世は逆説に満ちている。自分の意思で生まれて来た人はいないが、生まれてきたことに意味を見出せるのは自分以外に居ない。生に意味を見出すためには自分の意志が必要だが、その姿勢を他者から学ぶこともある。生に意味を見出そうとする姿勢を教えてくれた他者は、死と隣り合わせの子どもたちだった。TCHは直接的には、純粋にその子どもたちや家族の生を支えるための施設である。しかし、そういった施設が世の中にまぎれもなく存在しているという、まさにその事実自体が、今日も見知らぬ誰かを、社会を、私たちを、いくらか救ってくれている。

 

※ 雪遊びの費用は数百万円ではなく、60万円でした。お詫びして訂正いたします。(2020/02/19  13:53)