著者直木賞受賞後第一作の長編小説である。清々しい読後感を与えてくれた作品であった。
本書を貫くテーマは名子(なご)である。江戸時代の農村では名子と言えば一般の農民から一段低く見られる存在であった。評者が江戸時代史を学び始めた四十数年前には、土豪百姓の隷属農民とされていた。青山氏は、名子出身の主人公の青年笹森信郎を通して、名子観を見事に転換させている。今は最下級の農民とされる名子は、戦国の世ではまさしく武士であったのである。
その名子が武家に身上(みあ)がりする「励み場」が江戸の勘定所普請役なのである。武士の姿はしていても、正式な武士ではない。そこで励み成果を残し、真の武家を目指すのである。江戸時代は身分が固定された時代と一般に認識されているが、庶民から武家への身上がりの場はいくつかあり、勝海舟の祖父や名代官川崎平右衛門などはよく知られている。
信郎と妻智恵は相手を慈しみ想いを寄せつつも名子にしばられ翻弄されている。その苦悩は悲しいばかりである。しかし、彼らはそれぞれに名子から解放されて行く。その過程が丁寧に、そしてテンポよく描かれ、心理描写は読み手を飽きさせない。
また、主人公夫婦の他に智恵の父と母、姉を通した家族の思い、信郎がふれあう人々の「誠実」な姿も大きな魅力となっている。
それにしても著者の江戸時代史に関する知識は並大抵の物ではない。半世紀近く江戸時代史に接している評者も感心させられる。その江戸時代、特に農村に関する知識が本書を確かな作品に仕上げさせている。とは言っても、歴史知識は物知り顔ではなく、作品になくてはならない構成要素となっている。浅い歴史知識を振りかざす作家も多い中貴重な存在である。
初めて青山氏の作品に接したが、遅すぎたことが無念である。しかし、次回作を心待ちに出来る作家を得たことは僥倖であった。