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「小さな声」を拾い集めておかないと、過去が想像できなくなる

――簡単に割り切れない思いや、生々しい記憶を「証言」として聞き取る時に気をつけていることはありますか?

寺尾 あんまり口を挟まないようにしてます。あれ、ちょっと事実誤認してるかも、と思ってもすぐには突っ込まない。その人の記憶ではそうなっているんだ、ということ自体が大切だったりするので。もちろん文中では注記を入れたり、補足したりはしますが。

――まずは聞くことに徹すると。

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寺尾 私、結論を出すのが苦手なんですよ(笑)。だから、あらかじめ自分の方向性というのは決めずに行きます。歴史を書く人の中には、自分なりの「こうである」「本当はこうだったんだ」というスタンスがあってそれを補強するための情報を得ようと取材に臨む人もいると思うんですが、オーラルヒストリーの場合、もっとフラットでないといけないですよね。

 

――寺尾さんが、戦争経験者から特に拾い集めておきたいと思っていることは何ですか?

寺尾 小さな声、かな。私が聞かないと、誰も聞かないんじゃないかっていう細かい記憶とか。前述のような聞きたいことが決まっている取材ではとりこぼされてしまうだろう細かい話とか、一見歴史と関係がなさそうな個人の思い出なんかがないと、過去の実際というのは想像しにくいと思うんです。

――寺尾さんが「戦争を書く」理由はこのあたりにあるんでしょうか。

寺尾 そうですね。単に昔のことを書くんじゃなくて、私と同世代の人たちが、過去の状況を想像できるものを書いていきたいと思ってます。そうじゃないと、単純な歴史物語に騙されてしまう人が増えてしまうから。

なぜ「ノンフィクションエッセイ」なのか?

――エッセイ風にして作品を発表されているのも、同世代により届くよう意識されてのことなんですか?

寺尾 なるべくやわらかく伝えたいというのはありますけど、軽いエッセイにはしたくないんですよね。証言を載せている以上、あとから調べたい人が歴史的な部分も辿れるようなものにしておきたい。だから「ノンフィクションエッセイ」としているんです。

――確かに論文が引用されていたり、巻末には参考文献が付いていたり、ただのエッセイにはしないぞ、という意思が感じられますよね。

寺尾 ハハハ。前作の『南洋と私』なんかは、まだ論文に近いような不思議な形ですし、「読みにくい」という意見もあったと思います……。

 

――清朝再興を志し、戦前・戦中の日本と中国を行き来した“男装の麗人”川島芳子の実像に迫った『評伝 川島芳子』。これは大学院の修士論文をベースにしたものですから論文調なのは当然としても、寺尾さんの作品には一貫して、資料や文献への敬意があるように思います。

寺尾 自分が何か調べる時に助けてくれるのは、先行研究者の参考文献や最新の論文なんです。だから、私としても、何かを調べようとしている人の役に立ちたいなあっていう気持ちは強いですね。