戦後72年。かの戦争体験の声が次第に聞けなくなっている今、証言者たちの“孫世代”の中に、声を拾い、研究を深め、表現をする人たちがいる。
戦争から遠く離れて、今なぜ戦争を書くのか――。
インタビューシリーズ第1回は音楽家の寺尾紗穂さん。ピアノ弾き語りや歌手活動の傍らで、戦争体験者の証言を集め「ノンフィクションエッセイ」として作品化し続ける理由を聞いた。
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とりあえず今は動かなきゃ、話を聞いておかなきゃという気持ち
――新刊『あのころのパラオをさがして』は、サイパンなどを取材した『南洋と私』と同じく、寺尾さんが現地に足を運んで「あのころ」を知る人たちに話を聞き歩いています。なぜ、そこまで「南洋」の「あのころ」に惹かれているのですか?
寺尾 知らないことだらけなんですよね、戦中の南洋諸島と日本の関係って。そもそもは中島敦に誘われるようにして、南洋に関心を持ち始めたんです。大学のとき、屋久島に文庫「ちくま日本文学全集」の中島敦の巻を持って行ったんです。中島の作品って「文字禍」とか「山月記」とか、ちょっと硬そうなタイトルが多いんですが、そのなかに「マリヤン」っていう短編が入っていて、何となく読み始めた。すると、このマリヤンっていう女性がパラオで日本語を話す人だったこと、その頃のパラオは日本に統治されていたこと、なぜマリヤンが日本語を話せるかというと現地で日本語が教えられていたからだということ、そして中島は当時、日本語教科書編纂の役人として仕事をするためにパラオに赴任していたことを知ったんです。
――歴史を知っただけで満足せずに、現地に行って「あのころ」を知る人に話を聞きたいと思ったのはどうしてなんですか?
寺尾 中島の南洋滞在から生まれた作品群を読み、南洋の人々の日本への思いをもっと知りたいと思ったんですね。でも日本にいるだけでは、なかなか見えてこないし、ネットには南洋群島は親日的、という言説が流れていたりもして。実際、パラオにもサイパンにも「日本だった頃はよかった」と回想する人が多い。そういう証言を集めた本もあるくらいだし、美談も多いんですが、本当にそんな単純なものなのかな、という疑問が湧いてきて。こういう話は細かく聞き取っておかないと、簡単に単純化されてしまう。それで実際に行ってみると、やっぱり複雑なところもあったし、サイパンとパラオで微妙に親日意識が違うなあと思うこともありました。
――それはどんな違いなんですか?
寺尾 私もすべての人にお話を聞いたわけではないですし、サイパンを取材したのは約10年前のことなので断定的なことは言えませんが、サイパンには日本人に対してはっきりと批判をする方もいたんです。でもパラオの場合は、目の前で日本兵のひどい振る舞いを見たという証言をしながらも、それでも「日本時代はよかった」と回想する人がいた。パラオのほうが、日本に対する正と負のねじれた感情が生々しく残っているのかもしれないと感じました。
――でも、どんどん戦争の頃の話ができる人が少なくなっていますよね。
寺尾 だから、とりあえず今は動かなきゃ、話を聞いておかなきゃという気持ちが年々強くなっています。10年前にサイパンの老人ホームを訪問した時にはまだ10人以上の方にお話を聞けたんです。でもパラオにはもう、話せる方が数人しかいなかった。