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裁判所が用いる「経験則」、必ずしも根拠があるわけではない

 多くの人は、裁判所が事実認定に用いる「経験則」は、文献などに示されるような、統計的な根拠や、科学的な根拠があると思うかもしれない。だが、実際は、裁判官の「常識」という根拠のないものがある。

 久留米準強姦事件で、地裁が用いた経験則は「目撃者が多数いる中で、犯罪と認識して犯罪をする人はいない」という「性交する側の常識」だった。しかし、「性交される側の常識」に、少しでも目を向ければ、「飲酒して眠っていたら、誰から性交されるかもわからないサークルに、女性が入会する可能性は皆無に等しい」ことに気づくだろう。

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 そして、この事件の被告人は、職業・年齢からして、通常の判断能力を有するので、泥酔して眠っている被害者を見て、「性交の承諾をしている」と、心底信じていることはあり得ないという結論に達するのである。

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 高裁は、被告人は「抗拒不能の状態にあった被害者を直接見て性交をしているから、抗拒不能状態を認識していたと推論するのが当然」「明確な意思を示せないような状況で、性行為に同意する女性は通常いない」「女性が許容しているという非常識な発想を認めた一審の判断は不合理」と述べている。まさに地裁は「非常識な発想を認めた」のである。

性犯罪の「経験則」を作ってきたのは誰か

 性犯罪の認定に関する「経験則」を方向づける判例が揃っていったのは昭和20-30年代である。このころは、裁判官と言えば、まず男性であった。強姦罪・準強姦罪は、女性しか被害者にならない犯罪であった。いくら優秀な裁判官であっても、自分が被害者になる可能性がまったくない犯罪について、適切な判断をすることが難しいときもあっただろう。

 私は、男性裁判官には、性犯罪の成立を判断する「経験則」がないと言いたいのではない。現代では、心理学的・統計学的な裏付けのある「経験則」が明らかになってきたので、これを尊重し、「経験した人・経験する危機感を持って生活している人」の「経験則」を尊重すべきだと言いたいのである。