北朝鮮の個人崇拝ソングの場合
名前の連呼は十分な宣伝効果が得られないどころか、かえって逆効果になることもあるのだろう。
これは、独裁国家においても同じである。北朝鮮の個人崇拝ソングなどは、金日成、金正日、金正恩ら最高指導者の名前を連呼しているだけと思われがちだが、もちろんそう単純ではない。
個人崇拝ソングは、短い歌詞のなかに、必要な用語や業績をうまくつめこみ、さまざまな比喩を用いながら、もっとも印象的な箇所で指導者の名前を出さなければならない。
そのため、よくみると、その内容に微妙な違いが認められる。
抗日武装闘争の英雄、建国の父、朝鮮戦争の勝利者である(ということになっている)金日成関係の歌は、歌詞が具体的なことが多い。彼を讃えるネタは実際にたくさんあるからだ。
これにくらべ、(とくに初期の)金正日の歌や、金正恩の歌は、業績が少ないために、レトリックを駆使した抽象的な内容になりやすい。
これは、「金日成将軍の歌」と、「金正日将軍の歌」や「金正恩将軍讃歌」「金正恩将軍に栄光を」などを比べてみるとよくわかる。前者はパルチザンの実績を細かく伝えるが、後者にはそれが乏しい。
このように、北朝鮮においても、政治家の歌は容易ではないのである。
21世紀日本の政治音楽の姿
まして現代日本においてはなおのことそうだ。
新人の場合、業績がないので抽象的な歌になりやすく、名前を連呼せざるをえない。無理に内容を水増しすると、個人崇拝ソングのようになってしまう。
かといって、ベテランの場合も、短い歌詞に業績をうまく収めるのに苦労を要する。たとえうまくまとめても痛々しい自画自賛になりうるし、余計なことを書くと足元をすくわれかねない。
そうすると、21世紀における音楽の政治利用は、コミカルな音楽で名前を連呼するか、既存の音楽を活用するかに落ち着きそうだ。「稲田朋美の歌」は、前者ということになる。
現在の日本では、政治と音楽はまだまだ距離がある。音楽イベントで政治的なトークを行うと、「音楽に政治を持ち込むな」などと批判されたりもする。
ただ、政治と音楽の関係は意外に近い。これは、独裁国家だけではなく、民主国家においてもそうだ。
「稲田朋美の歌」に感激する人間はほとんどいないだろうが、念のため、この手の歌のパターンを知っておくにしくはない。そうすれば、同じような歌がでてきても、すぐ気づけるからである。
政治家の歌は本気で受け取られるのではなく、冗談で消費されるのがふさわしい。これからもそうであるかどうかは、受け手の態度次第だろう。
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