手に取るには些(いささ)か不穏当なタイトルかも知れない。
「その指摘は一部当たっていると思いますよ。大体、僕は家庭内においてすら言動が不穏だと家人に言われてきましたからね(笑)。ただ真面目なことを言うと、そもそも『ファッショ』という言葉には束ねる、団結という意味がある。この世に生まれ、他者と気心を通じたいと考える僕は、自然とファシスタになろうとしていたわけです。事実、亡くなったカミさんとも固いファッショを結んでいたように思いますね」
本書は回想録には違いないが、主語は常に「私」ではない。「この男」「彼」「老人」と、第三者の視点からの筆致が小気味良い。私小説、あるいは西部思想の集大成とも言えそうだ。
「時折、『西部はブレない』なんて褒めてくれる方があるけれど、僕からすれば全く嬉しくない評価ですよ。昔はよく、新宿の飲み屋街で『おい西部。転向なんかして恥ずかしくないのか!』なんて罵声を浴びせられたものだけど、僕は決まって言い返す。『俺はな、蝶なんだよ。変態してるんだよ』って。シモーヌ・ヴェイユを見なさい。スターリニストからトロツキスト、アナーキスト、カソリック……彼女は15年間に何度も転向している。物を考えているとメタモルフォシスしないなんて有り得ないんだ」
6歳で敗戦を経験した。60年安保の闘士だったが、左翼に愛想は尽きた。アカデミズムに失望し東大教授の椅子を降りた。保守知識人の代表格でありながら、イラク戦争を批判したことで、右派、あるいは反左翼からも煙たがられる。振り返れば西部さんの人生は常に勝負と共にあり、敗北の連続だった。
「どうもそういう性分らしいね。負けたからってなんてことないという気持ちは常にあるし、もっと言えば、勝ちたくないとすら思っているフシがあります(笑)。この歳になったからなおさらそう思うけれど、勝ち続けるのを狙う人生だとしても、最後は死んでしまう。死だけは平等だからね」
だが、「どうせ死ぬんだから」と投げやりになるのは、西部さんが最も嫌悪する短絡的な結論だ。
「かつて僕は失語症も同然になり精神的に苦しんだ経験がある。誰にも死があるとわかっていながら、それでもあのニヒリズムの時期に戻ろうとは決して思わない。死へ向けて必死に生きねばいけない。上手くまとめれば(笑)、ファシスタであろうとすることもその実践というわけです」
『ファシスタたらんとした者』
孤高の思想家である西部邁がいかに生まれ、生き、そして死んでいくかを描いた自伝。幼少の記憶、家族への慕情、逸脱を目指した青年時代、大学教員時代の狂騒、そして評論家として時流に右顧左眄しない独自の思想に至るまで、戦後日本の歩みと共に生き思索し続けた著者の思想の深奥。