※本稿の内容には、現在公開中の映画『パラサイト 半地下の家族』のネタバレが含まれています。まだ映画をご覧になっていない方はご注意ください。
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米アカデミー賞で作品賞を受賞した話題の韓国映画『パラサイト』は、よくできた面白い映画である。荒唐無稽な設定で、ドキドキハラハラの展開なので飽きさせない。映画は面白くなければ成功しない。
あの映画はエンターテインメント映画として成功したのだが、内外であふれている批評のほとんどは「韓国社会の貧困と格差を描いた」という深刻なメッセージ、つまり社会性を強調している。その結果、映画はフィクション(虚構)であるにもかかわらず、まるで韓国の現実風景そのものであるかのような誤解、思い込みが広がっている。
映画の面白さから“ズレた”批評ばかり
とくに日本では近年、反韓・嫌韓感情の高まりをふくめある種の韓国ブームなので、あの映画に対する批評も、その面白さよりもメッセージ性に関心が向いているようにみえる。たとえば2月11日付の東京新聞のなんと社説(!)にこんな評が出ていた。
「ポン・ジュノ監督が紡ぎ出した底知れぬ奥行きは、財閥による富の寡占など韓国特有の問題だけでなく、世界が抱える格差が放つ『腐臭』を残酷なまでに抽出している。(略)ポン監督も貧富という普遍的で避けて通れないテーマに向き合った。それは監督自身が、社会に向けて作品を訴え続ける映画芸術家としての責務ととらえたからではないか」
実に格調高い評だが、映画の面白さとはどこかズレを感じる。
「韓国における貧困」の現実とは?
この映画をめぐっては、ソウルにいる筆者のところにも日本のいくつかのメディアから問い合わせがあった。そのほとんどが、映画に描かれた「韓国的な貧困と格差」を物語る風景を取材したい、というものだった。端的にいえば日本語版の副題になっている「半地下の家族」の現場を探りたいというのだ。
映画における「貧困の現場」の風景が関心の的なのだが、そうした見方に対する批判の意味を含め、まず「韓国における貧困」のことについて書いておきたい。