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クリスティーズジャパンのトップが伝える「審美眼の磨き方」

澤田瞳子が『美意識の値段』(山口桂 著)を読む

2020/03/09
『美意識の値段』(山口桂 著)集英社新書

 アートオークションの世界は、日本人にとって最も馴染みのないものの一つに違いない。二十代から三十代にかけて私立博物館で働き、現在も大学の博物館学芸員課程に出入りしている私ですら、「あの作品、クリスティーズで売却が決まったって」「先日○○に入った作品、サザビーズ経由らしいね」という噂をうっすら聞く程度。セール会場に足を踏み入れた経験は皆無なのだから、オークションなぞまったく異世界の話と感じる方も多いかと思われる。

 本書は世界二大オークションの一つ、クリスティーズの日本法人社長であり、長年、東洋美術部門の責任者として数多くの美術品に接してきた山口氏が、オークションを取り巻く世界について記した一冊。そもそもオークションとは? というイロハはもちろん、売買に携わる個性的な人々の横顔に真贋の見分け方、果てはアートと生活の関係性についても言及した興味深い書物である。

 ――と、その概略をこう記すと、「ふむ、これは美術の本なのだな」と思われる読者諸氏がおいでだろう。そんな方のために私はここで、声を大にして主張したい。この書物は確かに美術の世界を俎上に上げているが、描こうとしているのは「人間の新たな生き様」なのだ、と。

 山口氏は東京神田の三代目という江戸っ子。浮世絵研究者である父から厳しい美術史教育を受けた反発から、十代後半は西洋文化に傾倒。その後、大学ではフランス文学を専攻したものの、再度の転向を経て、日本美術の専門家となった異色の経歴の持ち主だ。

 そんな彼が籍を置くクリスティーズは、「人間によってアートと定められた品」を「人間が売」り、「人間が買」う場。そのやりとりには自ずと関係者の生き様がにじみ出ることは、本書を開けばすぐに気づかれるだろう。なぜなら芸術とはそもそも、それを作品と考える者が現れて、初めて芸術たりえる。いうなればアートと人間は向き合った瞬間から不可分な存在となり、我々がアートを品定めしている時、我々もまた品定めを受けているからだ。

 山口氏は日本という国の文化を如実に映じた日本美術品は、海外においてはそれ自身が「文化外交官」たりえると記している。美術作品がただの品物ではなく、文化・国家を語る代弁者の役割りすら負うとの事実を個人レベルに落とし込めば、アートを手にするとは恋人や伴侶を得る以上に、己自身を見つめ直す機会ともいえよう。そう、まさに芸術作品とは個々人の映し鏡。それとの出会いは、もう一つの人生を手に入れるようなものだ。

 そう思って本書を再読すれば、アートとともに生きる人々のなんと溌剌たる喜びに満ちていることか。本書は一度歩み出したら二度と引き返せぬそんな魅力的な世界への、甘美なる手引書なのである。

やまぐちかつら/1963年、東京都生まれ。クリスティーズジャパン代表取締役社長。日本・東洋美術のスペシャリストとして、2008年の伝運慶の仏像のセールなど、多くの実績を残す。


さわだとうこ/1977年、京都府生まれ。小説家。2010年に『孤鷹の天』でデビュー。『若冲』『火定』『落花』など著書多数。

美意識の値段 (集英社新書)

山口 桂

集英社

2020年1月17日 発売

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