「見学に行った翌週にはデビューしていました」
「そうですね。見学に行った翌週にはデビューしていました。お客さんの表情を含めて、劇場の熱気が当時は凄かったですから。金銭的な魅力もありましたが、ストリップという仕事に抵抗をあまり感じなかったんです」
「デビューする前に、ストリップと何かしら縁はあったんですか?」
「埼玉の朝霞に住んでいたことがあり、外人のお姉さんがいっぱいいる街だと思っていました。ストリップ劇場があるのは知っていましたが、何かの機会にたまたま劇場の看板を見ていたら、外人さんの写真が貼ってあったんです。その時、劇場の従業員さんだと思いますが、『うちは日本人はいないから、もしストリップをやりたいなら他の劇場を紹介するよ』と、言われたことがあります。確か、劇場の名前は朝霞コマ劇だったと思います」
とんでもない偶然に、私はどきりとせずにいられなかった。朝霞コマ劇は、「ストリップの帝王」こと瀧口義弘が経営していた劇場だった。そして、彼の息子も従業員として働き、主に受付で客の呼び込みなどをしていた。もしかしたら、ゆきみに声をかけたのは瀧口の息子だったのかもしれない。
当時、朝霞コマ劇では、外国人の踊り子が本番まな板ショーを行っていた。そのショーは、これはあくまでも私の見解だが、花電車とは対極にあるものといってよいだろう。客と踊り子のセックスを晒すショーは、ストリップ劇場を芸の道から乖離させ、性欲を発散させるだけの場所に貶めた。
過激なショーは人気を呼んだが、のちに警察の摘発の対象となり、劇場側は本番まな板ショーから手を引かざるを得なくなった。劇薬のようなショーの消滅は、ストリップが衰退する一因となった。
〈コインを1枚1枚……芸歴20年の花電車芸人が語る、ストリップの世界で失われた“究極の技”〉に続く