猫本なのに「泣ける」理由
あまたある猫本のなかでも、『ヒックの家』に手が伸びたのは、ヒックの絶妙な表情からだった。ページをめくると、片方の耳を押しつぶしたまま、あどけない顔で寝ている姿や情けない寄り目の顔などが並んでいて、その七変化の表情につけられた解説文のキャプションにはくすりとさせられたり、ほろりとさせられたり。
そして、裏表紙に書かれたこんな言葉にぐっときた。「たいへんな路上生活をしていた猫に優しい家族と家ができたという話はいつも愛おしい。ただ、ヒックの話が格別なのは、猫にだけ家ができたのではなく、人にも家ができたことだ(以下略)」(『ヒックの家』より)。
版元のコ・ギョンウォン代表に話を聞くと、「最初から泣けた」という読者が多かったそうだ。ヒックの写真に癒やされながらも、単なる猫本というよりは、「希望を探していた著者と家族を探していたノラネコが出会ったことで、小さいけれど温かな家庭を築いた。その過程に心が動いたという読者が多かったんです」という。
コ代表の出版社は、ひとりで切り盛りする猫専門の出版社で、『ヒックの家』は第一作め。インスタグラムを見たコ代表がイさんに連絡し、韓国ではSNSから生まれた代表書籍の一つとなった。イさんとヒックが出会った場所が韓国の若い世代にとっては浪漫を感じさせる済州島というのも魅力的ではなかったか。コ代表はベストセラーの背景をそんな風にも語った。
将来に希望が持てず訪れた済州島
ヒックと出会った時、著者のイ・シナさんは20代後半。大学を卒業したが就職は思うようにいかなかった。将来に希望が持てなかったとき、考えを整理しようと訪れたのが済州島のオルレッキルだったという。オルレは済州島の方言で家に続く狭い路地、キルは韓国語で道という意味だ。韓国のあるジャーナリストがスペインのサンティアゴの巡礼の地からインスビレーションを受け、2007年に作った人気のウォーキングコースで、現在では済州島を一周できる26コースがある。この道で出会った知り合いが済州島にゲストハウスを開いたと聞いて、衝動だけで済州島にやって来たとイさんは言う。
「両親は昔の考えに捕らわれていて、公務員になって、何年か働いた後は結婚すればいい、といつも言っていました。しかし、公務員試験の競争率は何10対1。その1の中に入れる自信もなかったですし、そんなことを言われるのがとても居心地が悪かったんです。両親には申し訳ないですけど、将来への不安という“現実”で飛び出したというよりは、早く家から出たかったというのが正直なところです」
そんな悩みも本に書かれている。読者からは「自分も同じ境遇だった」という多くの声が届いたそうだ。そうして、出会ったのがヒックだった。