「自分の出自が岩の坂にあることを口外したがらない」
「東京の奈落」によれば、岩の坂は中山道の宿駅として栄え、人馬が引きも切らず往来。明治初年ごろまでは江戸に上下する旅籠屋(馬宿と言った)や雲助小屋があり、遊女屋も軒を並べて板橋宿繁華街の中心だった。しかし、上野―高崎間に開通した鉄道がここを外れて赤羽に出たので、にわかに火の消えたようにさびれた。いままで景気のよかった馬力、雲助などは職を失い、その日の糧にも困るようになって、遂に乞食に転落した。「これが岩の坂の貧民窟の始まりであるが、特に関東大震災以後、都心近くの貧民がここに移動して地区を広げた」という。
西井一夫「新編『昭和二十年』東京地図」には「エンツキエノキから志村清水町へ下って行く坂を岩の坂といい、『縁が尽きるいやな坂』としゃれたものだったという」と書かれている。そこで生まれ育ったフリージャーナリスト小板橋二郎氏は著書「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」の中で「私には異父兄弟を含めて5人の兄姉がある。そのうちの誰もが、いまだに自分の出自が岩の坂にあることを口外したがらない」と書いている。
東京朝日夕刊の記事は「岩の坂」の現状と事件の背景を詳しく書いている。「岩の坂部落には木賃宿が、小川きくが泊まっている原田旅館ほか11軒、長屋は福田はつの太郎吉長屋を筆頭に奇怪な名なのが十数軒ある。ここに住む人はチンドン屋、遊芸人を上層階級として、よいとまけ人夫、くず屋、念仏修行者(押し掛け乞食)、たわし行商、おなさけ屋(街頭乞食)など70世帯2000余人」「養育費付きのもらい子があると、たちまち男女が寄ってたかり、成金気分になり、酒、たばこ、食物に数日間もドンチャン騒ぎを続けるという怪奇な光景を呈するありさま」。
愛児を手放すのは「身の不始末によるものが実に8割の多数」
もらい子についてはこう書いている。「最も多いのは八王子市、桐生など機業地の女工の私生児で、その次は悪産院や周旋人の手を経たり、よいとまけがもらってくる東京市内外の上流社会未亡人や令嬢の子、中には八王子方面から女教員の子が今年中に3人も来ているが、女給、芸者の子は一人もない。これらのもらい子は大正13年ごろ17、8名だったのが、近年では年々3、40人に増え、そのうち、生活難から愛児を手放すのは約1割の少数で、家庭の事情や義理に絡むのも約1割。身の不始末によるものが実に8割の多数に上っている」。養育費周旋料はたいてい50円以上100円ぐらいまでで「周旋人が大部分を取り、部落民には10円ほどしか渡らない」という。
紙面には、生母村井こうの談話も載っている。「世話してくれた人がまじめとばかり信じきって、いまごろは大家の子として幸福に暮らしていると思いましたのに、死んだ子どもと、鬼のような尼さんの顔を見比べたときには自分が殺されたような思いで、涙も引っ込むほどの驚きでした」。
これまでも遺体を持ち込まれていた永井医院の医師の発言も。「いつもいよいよ死に際になってから連れてきますが、もらい子とは言わず実子だと頑張って、もし私がそれを看破すると、この死児をここへ置いていきますと脅迫するありさまです」。だが、状況からみて、どちらの言葉もそのまま信じるわけにはいかないようだ。