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同情を引くために「子を借りて収入を得る」

 記事にはもらい子の「運命」も書かれている。「数日間、形式的に育てたうえ、結局栄養不良、乳房の窒息死、過失などの形式で、巧みに法網をかいくぐって片付けてしまう。5歳から10歳で死んだものは私立医大の解剖研究用に売り、育て上げたものは乞食の手引きにして、15、6歳を過ぎると、男なら北海道の監獄部屋に、女なら娼妓に売り飛ばすという、食人種そこのけの言語道断な処分だ」。

「乞食の手引き」といっても分からないかもしれない。「東京の奈落」には子どもについての恐るべき実態が載っている。「宮寺の境内や門前、あるいは橋の上で縁日などに大地に座り込んで同情者を待つのを、彼らの仲間では張り店といっている」。

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「ことに小さい子どものあるのが一層おもらいが多い。ところが、この子どもというのが自分の子ではない。たいてい借りっ子である。彼らの仲間には子どもを貸すのを営業にしているものがある。『きょうは上を貸しておくれ』『きょうは中でよい』『きょうは銭がないから、下にしておこう』と言って借銭を払って子どもを連れて行く。上というのはめくらの子どもである。これが一番同情を引いてもらいが多いので上物という。1日の借銭は80銭(2017年換算で約1500円)である。中というのはピイピイとよく泣く子、よくお辞儀をする子である。下というのは何も芸のない普通の子である。中は30銭(同約580円)、下は20銭(同約390円)。この子どもを借りて1日3、4円(同約5800~7700円)の収入を得て、乞食を唯一の得意として朝から飲み暮らす者があるなどは何人も想像し得ないことであろう」

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 もらい子の“需要”はここにもあったということだ。岩の坂の捜査が進んでいたさなか、東京市社会局嘱託だった「浮浪人研究の権威」(東京朝日の記述)草間八十雄は岩の坂を現地調査。結果などをまとめて1936年に「どん底の人達」を出版した。その中で「明治初年には、隅田川畔で乞食の使う子どもの市が立ったという話です」「数十人の乞食たちが集まり、『1銭』とか『2銭』とかと言ったように、だんだんとせっていったものだそうです」と書いている。さらに「子どもを借り出した乞食は、それだけの効果があるかと言いますに、実は驚くほどの効果があるのです。わけても子どもを失った親御たちにぶつかろうものなら、一人で意外なる収入があるそうです」とも。

「留置場が家よりずっと美しい」

 4月16日付東京朝日朝刊は、板橋署で関係者の検挙と取り調べが続いていると報じたが、記事にはこんな記述も。「同署で一番困っているのは、留置中の被疑者連で、留置場の方が自分らの住居よりもずっと美しく、差し入れ弁当もうまいので、お客気分に満足しきって一向平気なことに係官も苦笑している」。4月17日付東京朝日朝刊にも「子殺し嫌疑者で 板橋署満員」の見出しが。記事は検挙者が11名に上ったことと併せて、「社会問題化するとともに部落改善の気運が濃厚になってきた」と書いている。

 そして4月19日付朝刊には「板橋町岩ノ坂に 更にまた怪事件 もらひ子無残の死」(東京朝日)、「恐しい噂の板橋に また貰ひ子の怪死 女労働者検挙さる」(東京日日)という記事が載った。

1933年当時の板橋警察署。右側が中山道、左側が川越街道(「大東京写真案内」より)