<ある村で子ども30人以上が無残な死……恐ろしすぎる「岩の坂もらい子殺し」事件とは から続く>
「子殺し常習の村」で罪を問われたのは一人だった
4月22日付東京朝日朝刊は、前日の21日、「犯行の一切が明らかになったので」小川きくの身柄を検事局に送ることになったとの記事を掲載。「夫幸次郎は犯罪に関係がないことが分かり、釈放された。また、小川きくの検挙が動機となって挙げられた同部落のもらい子殺し常習の女6名、男5名は引き続き留置、取り調べている」と書いた。こうして進んだ岩の坂の“地区ぐるみの犯罪捜査”だったが、その後パタッと報道が途絶える。
「もらひ子殺しに 懲役七年求刑」の記事が東京朝日に載ったのは翌1931年1月22日付朝刊。「被告(小川)きくは昨年4月、同所(岩の坂)のもらい子周旋業福田はつから15円の養育料付きの男の子をもらい、菊次郎と名付けて次男の届け出をしたが、同月13日朝、菊次郎があまり泣くのでこれを手で絞殺したという1件のみしか自白せず、検事もこの1件を公訴事実として起訴したが、公判で証人調べを行ったところ、もらい子殺し常習の同部落の実情などがさらけ出され、傍聴者を驚かせた」とある。しかし、結局罪を問われたのはこの小川きく一人。公判できくは「このほか3人の子どもをもらったが、皆体が弱く育たなかった」と述べたと記事にある。約1週間後の1月28日、東京地裁は小川きくに殺人で求刑通り懲役7年の刑を言い渡し、この1件は幕を閉じた。
犯人の処罰が驚くほど軽かったのはなぜか
なぜ捜査はそれ以上広がらなかったのだろう。「殺人鬼村」などのセンセーショナルな新聞報道と実際に処理された事件の落差が大きすぎる。周旋人の福田はつなどは重刑を科せられても仕方がないように思えるが……。事件を取り上げた紀田順一郎「東京の下層社会」中の「暗渠からの泣き声」も、「岩の坂事件の最も奇怪な部分は、実は別のところにある。それは、犯人の処罰が驚くほど軽かったという一事である」と指摘する。
同書によれば、6人の住民が計33人の子をもらい、うち1名を除いて「変死」している。当時の雑誌記事では、留置場の関係から検挙を見合わせた者41人、もらい子数見込み127人、「悪周旋人」として助産婦、作業員、レンガ商とその内妻ら4人、参考人として医師3人、寺院住職4人、目撃者の尺八吹きら4人、家主7人のほか、子どもを手放した「女教員、女中、女工、令嬢、人妻」ら73人ほどが召喚されたとある。「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」には「36人の乳幼児を犠牲にした疑いで8組の夫婦を検挙した」と書かれている。
「暗渠からの泣き声」は理由をいくつか挙げている。(1)犯罪の法的立証の困難性(2)被害者の問題(3)政治的な動き――。立証の困難性はその通りだろう。「直接手を下したという証拠でもあれば別だが、栄養失調という間接的な方法では『体が弱くて育たなかった』『殺す気はなかった』と言われればそれまでである」「要するに、最初から殺害する気でもらい子をしたということを明確に立証することは難しい」(同書)。殺人はもちろん、傷害致死も立証は困難だっただろう。乳幼児の死亡率が現代から見て信じられないほど高かったことも関係している。