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「人々の人情の機微は、スラムならではの優しさに満ちている」

 岩の坂について書かれたものに異議を唱える人もいる。「ふるさとは貧民窟なりき」の著者・小板橋氏だ。

 同書は岩の坂についての厳しい指摘に違和感を示し、こう反論している。「スラムが汚かったのも事実である。長屋や木賃宿の照明が明治のころまでは極めて乏しかったのも事実だろう。家屋の構造がお粗末だったのは無論のことである」「きちんと市民秩序の中に納まった一般市民に比べれば、道徳的な規範がかなり緩かったのも事実だと思う。しかし、スラムといえども、そこに住んでいるのは、五感とごくごく一般的頭脳を持った連中なのである」「『岩の坂の住人は、この養育費目当てにもらい子を商売とした』という叙述同様、既成のルポや新聞記事を根拠にした偏見によって、無意識にスラムが『鬼が島』でもあるかのようにフレームアップしてしまったケースというしかない」。

当時の「婦人サロン」に載った岩の坂の住宅内(「東京の下層社会」より)

 そして、彼にとっての岩の坂をこう表現する。「私がここで記したかったのは、都会のスラムというものが、一人の人間の幼年から少年期にかけて、どれほど自由でエクサイティングで素晴らしい社会だったかということだ」「ここは一般社会に比べてそれほど居心地の悪い所ではない。人々の人情の機微は、スラムならではの優しさに満ちているのである」。同書には、岩の坂で会った人々とのかけがえのない触れ合いのエピソードがつづられていて魅力的だ。

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 岩の坂を含めた東京の貧民窟は1945年の東京空襲によってほぼ消滅する。戦後の焼け跡・闇市に貧民は群がったし、工場跡やバラックやガード下などをねぐらにした人は何年かたった後もいたが、それも高度成長によって姿を消した。以後、貧民窟が復活することはない。衛生思想が広がったことに加えて、地方自治の在り方が変わったのだろう。

戦後の犯罪史で知られる「寿産院事件」

 もらい子殺しは岩の坂以前も以後も存在した。「暗渠からの泣き声」によれば、1905年、佐賀県で49歳の櫛職人が妻と共謀。周旋人から私生児らをもらい受け、親から養育費を受け取ったうえ、全て殺害していたことが分かった。最初は餓死だったが、そのうち絞殺や生き埋めにしたという。「60人ぐらい殺したと思うが、実際はもう少し多いかもしれない」と供述。妻ともども死刑に処された。

 さらに、岩の坂から3年後、東京で無職の男が嬰児殺しの容疑で逮捕された。「子どもやりたし」という新聞広告(当時はそうした広告が堂々と新聞に載っていたという)を見て犯行を思いつき、生後10日から8カ月ぐらいの子を助産婦からもらい受けては殺し、埋めていた。25人の遺体が発見され、こちらも死刑になった