実母は「上流階級の人妻」や「令嬢」が多かった
被害者の問題というのは、もらい子殺しの法的被害者である子どもの実親だが、「肝心の親の所在は不明であるか、その事実を隠したいと思っているのが普通ではあるまいか」(「暗渠からの泣き声」)という点。同書が「当時の新聞や雑誌によると」として紹介している例は次のようなものだ。
「都下府中町の女教師が父親の不明の子を小川きくに託し、召喚と知るや行方不明となった」「埼玉県の小学校の校長と女教師の間に生まれた不義の子」「政治家と女高師(女子高等師範)の教師の間に生まれ、200円(2017年換算約38万6000円)をつけて出されたケース(6人の周旋人の手を経るうちに17円になってしまった)」。ほかに「資産家令嬢と53歳の書生」という組み合わせも。「概して未婚女性や夫を亡くした女性が多く、『上流階級の人妻』や『令嬢』はざらだったという」。
背景として同書は「大正後期ごろからの個我の解放、震災後のエロ・グロ・ナンセンスの風潮が明治の旧道徳を一挙に破壊し、この種の現象を助長した」と指摘する。子どもをめぐって“需要と供給”が生まれ、死への“バトンタッチ”が行われた。
事件がここまでセンセーショナルに描かれた特別な理由がある?
そして、政治的な動きというのは、同書が「最も大きな原因と思われる」とした独自の主張だが、興味深い。そこに登場するのは救護法との関係だ。
明治から昭和初期までの都市の貧困対策事業は、ほとんど寄付とその他の厚意で細々と行われていた。帝国議会開設直後には、政府が窮民救助法を提出したが、否決。その後、大正中期の慢性不況から関東大震災で労働争議と小作争議が頻発した。加えて金融恐慌で企業倒産が相次ぎ、失業者が大量に生まれた。これに対して、民生委員の前身である「方面委員」らが全国的な救護法制定促進運動を展開。ようやく1929年3月、「廃疾・老衰・疾病・幼弱者をもって救貧の客体とし……」などを内容に、日本初の本格的救貧立法として救護法が成立した。しかし、緊縮財政で施行の見通しが立たないまま、岩の坂事件当時の緊急政治課題になっていた。
「暗渠からの泣き声」は「事件当時、議会において全く行方の分からなかった救護法が、その直後に時期を早めて実施されるよう議決されたということに、事件との深い関連性を感じずにはいられないのである」とする。そして「事件全体に一種の意図――はっきり言ってフレームアップ性を感じるということである」と言い切っている。つまり、停滞していた救護法施行を促すために、事件を実態以上に膨らませたという仮説だろう。確かに、同書が指摘するように、乳児1人の変死に警察署長から検事まで飛んでくるのはいささか尋常ではない気がする。報道の仕方もいくらなんでもヘンだ。「ここには何らかの『取り引き』があったのではないか」と同書が疑うのも不思議ではない。