しかし、救護法が施行されるのは事件から2年近くたった1932年1月。時間が空きすぎている。警察や検察が組織として救護法を求める理由はない。日本社会事業大学救貧制度研究会編「日本の救貧制度」によれば、岩の坂の事件が騒がれていた時期に「武藤山治は議会において救護法の早期施行と予算の計上を内容とする決議案を提出した(昭和5年4月24日)が、軽く葬られてしまった。実施促進運動は一頓挫した」と書いている。彼や周辺が動いたとも考えづらい。救護法施行を求める動きと結びつけるのは少々“無理筋”ではないだろうか。

 ちなみに、救護法施行に力があったのが、最近1万円札の肖像画に決まった「日本資本主義の父」渋沢栄一。元々救護事業に熱心だったが、1930年11月に方面委員らから依頼を受け、病苦を押して政府への陳情を受け負った。渋沢が死んだのは翌1931年11月。島田昌和編「原典でよむ 渋沢栄一のメッセージ」は「まさに生涯のライフワークともいえる、命を懸けての社会事業への献身といえよう」と評している。

すべては警察署長の計画通りだった?

 ここで警察側の資料を見よう。「警視庁史[第3](昭和前編)」は、最初に届け出があったとき、「死因に疑いありとして、死体は(東京)帝大で解剖に付された。執刀した宮永博士は『掌で鼻口をふさいだための窒息死』と判定した」と記述。その後に「かねてから岩の坂の幼児多死に疑いを抱き、これが糾明の機会を狙っていた原田誠治・板橋警察署長は、徹底的解明を命じて厳重な追及を行わせた」という興味深いことを書いている。署長の意欲が原因だったわけだ。

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 同書は、捜査の結果、分かった事実として、もらい子を死なせて養育料と衣類などを横領する岩の坂の住民の犯行をまとめている。(1)小川きくと内縁の夫が菊次郎を含め4人(2)土工の内妻と土工が6人(3)便器洗い人と内妻が4人(4)福田はつと内縁の夫が8人。さらに、はつはきくらに7人を世話し、養育料をピンハネ(5)クズ屋と妻が3人(6)葬儀屋人夫と内妻が2人(7)土工人夫と内妻が5人(8)クズ屋と妻が4人――。これだと、「夫婦」8組計16人が合計36人の子どもを死なせた計算だ。「警視庁史[第3](昭和前編)」は「板橋警察署の調査によると、この部落にはなお百余名のもらい子がおって、これらのもらい子は養育料を横領されたうえに、人間とは思われない悲惨な状態で育てられるのである」とした。この通りならやはりすさまじい実態だ。

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「彼らの自供だけで両親さえも分からず、確実な証拠もなかったため、確証のある小川きくとその内夫小倉幸次郎の2人が菊次郎殺しとその共犯で起訴されただけで、他はいずれも不起訴となってしまった」(同書)。立件できなかった犯行を実名で「正史」に載せるのも相当なものだが、同書は最後にこう“負け惜しみ”を書いている。「長年よどみきった暗黒の泥沼に新風を吹き込んだというだけでも大きな意義があったといえよう」。

 総合的に判断すると、当時もらい子殺しが横行しており、岩の坂でも行われたのは確かだ。だが、実際にどれだけあったのか、犯意はどうかと考えて個々のケースを見れば、解明不能な点が多い。ましてや、立件できるかどうかも。署長にはそのあたりのことはお見通しだったのではないか。検挙して新聞に派手に書かせれば、見せしめになるし、自分の手柄にもなる。それで張り切って乗り出したというのが真実に近いような気がする。