80年前に消えた東京五輪は「呪われすぎたオリンピック」だった>から続く

「副島君の話など馬鹿馬鹿しくて夢のようなものだ」

 メーンスタジアムについては、東京朝日の座談会で副島は、既存の神宮陸上競技場の改修を主張。それに対し、永田の後任の牛塚虎太郎・東京市長は「人口600万人の大東京らしくやるべきだ」と述べ、副島の神宮説を「先走り」と批判した。東京市は月島の埋め立て地にスタジアムを新設する計画だった。座談会のこの回の見出しは「副島伯は神宮外苑 市長は月島を提唱 競技場でまた対立」。東京市と組織委、IOC委員と東京市の間の意見の不一致は周知の事実だった。

 年が明けた1937年2月23日、組織委で神宮外苑改造案に決定したが、24日付読売朝刊には「東京オリンピック迷走四ツ巴 決定大会場をめぐって暗澹たる雲行」という記事が。組織委の決定に東京市、副島IOC理事とも「非常な不満を持ち」と書いている。

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組織委など内部の“迷走”を報じた読売

 記事によれば、副島は「神宮外苑を中心として学習院、陸大などを包含する大拡張案」を主張したが認められなかった。さらに、決定案が貧弱だとして「これ(オリンピック)を東京に呼んだのは私です。もし(自分の意見を)聞き得なかった場合は、私はその責任をいさぎよくとって進退します」とまで発言している。対して嘉納は「副島君の話など馬鹿馬鹿しくて夢のようなものだ」「東京開催が不可能と思うなら考え通りにやられたらいいと思う」と突き放している。

 最終的に、神宮外苑は「国民の浄財で造られた記念物」とする内務省の強い反対で、駒沢に新しく建設することで落ち着くが、副島はこのあたりで、自分の考えたオリンピック像からどんどん離れて行くことに嫌気がさし始めていたのではないか。

日本の競技水準は世界から大きく立ち遅れていた

 さらにそれまでの実施種目で、日本の取り組みが立ち遅れていた競技がいくつもあったのも問題だった。「幻の東京オリンピック」は「日本の競技水準は陸上、水泳などを除いて世界から大きく立ち遅れていたし、競技団体の結成も不十分であった」と述べる。

  サッカーとバスケットボールはベルリンが初参加。フェンシング、カヌー、射撃、近代5種、重量挙げなどはオリンピック参加経験もなく国内組織も未整備だった。組織委は何とかそうした競技を外そうとするが、IOC内部からは強い反発も出た。ほかに興味深いのは、オリンピックでは恒例として国家元首が開会宣言を行うが、当時神聖不可侵の「現人神」とされ、肉声を聞くのも「おそれ多い」とされた天皇が開会宣言の場に立つことに対する反対も一部から出ていた。

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