昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

2020/04/05

「オリンピックの競技場を造るか、駆逐艦1隻を造るか」

 6月23日、日本政府は「戦局の進展に伴う事態に鑑み、従来よりも一層高度なる統制の下に物資需給計画を確立する要を認め」物資需給計画案を閣議決定し、発表した。戦争という目的に一切を集中し、その目的に合ったもの以外、物資調達や工事などを認めないという決定だった。

 使用制限の33品目に鉄材も含まれたが、東京オリンピックのメーンスタジアムには鉄材1000トンが必要とされていた。「東京百年史」は、当時の事情を「オリンピックの競技場を造るか、駆逐艦1隻を造るかの選択だった」と表現する。6月26日付東京朝日朝刊には「節約して既定方針で建設する」という関係者の談話が載っている。だが、一部を木材に替えても600トンが必要だが、その手当がつかず、結局、これがとどめとなった。

 1938年7月15日、閣議で東京オリンピックの返上と、同じ年に予定されていた万国博覧会の延期が決まった。オリンピックの施設は、この年、内務省から独立した厚生省の所管になっていたが、木戸幸一厚相(のち内大臣、戦後A級戦犯で無期刑)は次のような談話を出した。「いまや支那事変の推移は長期戦の感を一層固くするがために、物心両面にわたりますます国家の総力を挙げて事変の目的達成に一路邁進するを要する情勢にあるので、遂にこの際オリンピック大会の開催もこれを取りやむるを妥当なりとするに至ったのである」。

 まさに「刀折れ矢尽きた」返上だった。

「オリンピック中止」の記事(東京日日)

オリンピック開催に必要な“基礎体力”がなかった

「幻の東京オリンピック」は、「1940年東京オリンピックの問題点の1つは、紀元2600年記念として開催したいとの意欲が先行したため、肝心の競技施設を事前に全く整備しないままに立候補し、しゃにむに招致運動を続けたことである」と指摘する。さらに「日本の軍国主義化が急進するにつれ、オリンピックに内包される国際的、平和的な理念と、『紀元2600年』の持つ国家主義的性格との矛盾が激化し、軍部だけでなく政府内部でも、東京オリンピックの意義を認める空気が急速に希薄になっていたのである」とも。

 それは確かだが、全体を見ていくと、当時の東京、ひいては日本には、そもそもオリンピック開催に必要な“基礎体力”がなかったのではないかと思えて仕方がない。そこに日中戦争の戦費増大による予算の逼迫が加わってくれば、それ以上無理を重ねることはできなかっただろう。「『まず300万円は落ちるだろう』とふんでいた銀座通り商店連合会、内外の見物客を見込んで新築した新橋の第一ホテル、140室を拡張した山王ホテルなど、当て込んだソロバンはみんな皮算用に終わった」(「決定版昭和史8」)