2020年東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まった。中止ではなく、1年後には開催されるというが、思えばこのオリンピックはスタートからトラブル続きだった。国立競技場の設計変更、エンブレム“盗作”騒ぎ、招致活動での買収疑惑と日本オリンピック委員会会長退任、マラソン・競歩の会場変更……。麻生太郎・副総理兼財務相が言った通り“呪われたオリンピック”といえるのかも。

 しかし、いまから80年前、やはり難航を極めた挙げ句、中止に追い込まれるという“呪われすぎたオリンピック”があった。そこには当時の日本と世界の事情が反映していたが、いくつかの点では現在にも通じる問題をはらんでいた。

2020年夏から東京オリンピックのメイン会場として使用されるはずだった新国立競技場 ©iStock.com

招致決定に沸いた東京「遂に勝てり」「凱歌」

「東京オリムピック!正式決定 我等の待望実現! “東京”遂に勝てり」(東京朝日)、「果然!! 東京に凱歌 極東に翻る初の五輪旗」(東京日日)、「おゝ今ぞオリムピックは我等の手に 燦たり皇紀二千六百年 待望の聖火、来るの感激」(読売号外)――。

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 1936年8月1日の新聞各紙朝刊は4年後の1940年の夏季オリンピック(当時は「オリムピック」と表記した)が東京で開催されることが、ベルリンでの国際オリンピック委員会(IOC)総会で決まったことを報じた。東京朝日の別の見出し

「日本卅(三十)六票芬蘭廿(二十)七票」にある「芬蘭」とはフィンランドのこと。東京とヘルシンキが投票で争った結果だった。

 見出し、本文に「勝てり」「凱歌」など、勝ち負けにこだわった表現が目立つ。「萬歳!!」の説明が付いた東京朝日の写真は、「文部省体育課」と「東京市案内所」の何人かが両手を上げている。「戸外球技場」「馬術競技場」「漕艇競技場」などの会場設計図も掲載。「豪壮スポーツ殿堂 二年後には実現 計画はすでになる」と東京朝日は胸を張っていた。

「オリンピック招致決定」を報じた東京朝日

「東京でオリンピックを」というアイデアが生まれたのは6年前の1930年。“言い出しっぺ”は当時の永田秀次郎・東京市長だった。「紀元2600年に オリムピックを ぜひ日本で 永田市長等で主唱」。これは同年12月4日付東京朝日朝刊社会面2段の初報だ。

「来る昭和15年は神武天皇御即位紀元2600年に当たるので、同年には盛大なる種々の祝賀催しがあるはずで、早くも各方面において考慮されているが、まず明後年ロサンゼルスで開かれる国際オリムピック大会の次はドイツかスペインに決まる模様であるが、その次の大会を日本において開こうという気運が熟し、既に数日前、永田市長と山本忠興博士との会見において、この話は持ち出され、永田市長はその際、東京市が主唱してもいいと明言するに至り、もちろん、紀元2600年記念大会になるので、山本博士も非常に乗り気になっている」とある。

 他紙にも同様の記事が掲載されているので、永田が東京市担当記者に漏らし、アドバルーンを上げさせたのだろう。