神武東征になぞらえて聖火リレー?
東京朝日は主要な関係者を集めた「東京オリンピック座談会」を主催。1936年11月30日付朝刊から13回続きで連載したが、副島はその中でも持論を展開している。近代オリンピックの創始者クーベルタンの「オリンピックは参加するのが目的で必ずしも勝つのが目的でない」という言葉を引用。ヒトラーが国威発揚に利用したベルリンオリンピックを批判し、「日本はこれを国家の宣伝に使いたくないと思う。私はどこまでもスポーツの精神でいきたい」と言い切っている。
聖火リレーの問題もあった。1936年9月17日付東京朝日朝刊は「これだ!東京大会の象徴 “悠久の聖火”を翳し 日向から大リレー」の見出しの記事が載っている。
「神武天皇御東遷にならい」「皇祖発祥の地たる宮崎から東京まで1500キロの聖火大距離リレーを決行せんと、かねてより宮崎県学務課で立案中のところ、いよいよ具体案を得た」と記述。聖火を宮崎から関門海峡を経て山陽道、東海道経由で東京まで14日間で運ぶ計画。ほかにもさまざまな聖火リレーの私案が出たが、ほとんどが国内コースで、ギリシャ・オリンピアで採火して各国経由で日本に入ってくる国際コースではなかった。
当然、IOCに反対され、最終的には1938年3月29日付東京朝日朝刊「五輪聖火空のリレー」で報じられたコースで落ち着いた。オリンピアからアテネ、シリア、バグダッド(イラク)、テヘラン(イラン)、カブール(アフガニスタン)を経てインド北部を通り、中国・新疆地区、内モンゴル経由で北京へ。そこから日本の傀儡国家「満州国」の首都・新京(現長春)を通り、朝鮮半島を南下して門司入り。山陽道、東海道で東京へ、という順路だった。
軍部の関心は「利用できるかどうか」のみだった
組織委の担当者が陸軍参謀本部に協力を依頼したところ、応対した少佐は「面白いと思います。ただ、なるならぬは別として、ある時期までは極秘にしてください」と言ったという。「幻の東京オリンピック」は「中央アジア一帯をはじめとする広範な地域の地理や地勢、辺境における中国、ソ連など各国軍隊の配備状況を知る好機と考えたのだろう」と書いている。軍部にとっては、自分たちが利用できるかどうかにしかオリンピックに関心がなかったように思える。
大会運営の主体となる組織委員会の結成は、嘉納の根回しが功を奏し、彼の考えを基に進められた。最大の課題は軍部の関与だった。