「日本のスポーツ界の反応は極めて冷淡かつ消極的だった」
山本博士とは電気工学の権威の山本忠興・早稲田大教授。同大競走部長で、1928年アムステルダムオリンピックでは選手団長を務め、当時のIOCのラツール会長とも個人的な親交があった。永田は1923年9月に起きた関東大震災のときの東京市長。7年後の1930年3月に「帝都復興祭」が盛大に行われた直後、2度目の市長に就任していた。
橋本一夫「幻の東京オリンピック」によれば、永田は「復興祭の次が問題だ。紀元2600年の記念行事として何をやるかだ」と考えていたとき、市の秘書課員から「オリンピックはどうでしょうか」と提案されて同意。「アジア初のオリンピックを東京で開催するという壮大な構想を抱いたのである」(同書)
だが、「永田や山本の『オリンピック招致構想』に対し、日本のスポーツ界の反応は極めて冷淡かつ消極的だった」と「幻の東京オリンピック」は書く。
当時、スポーツの「元締め」である大日本体育協会(体協=現日本体育協会)会長の岸清一は、1924年パリオリンピックの選手団長も務めたIOC委員。だが、日本のスポーツ界の現状からみてオリンピックの開催は時期尚早と考えていた。同書によれば、側近が体協の機関誌に発表した文章で、開催に不安を抱く理由を挙げている。
「東京はヨーロッパから遠隔の地にあり、IOCが都市を決定する場合、この地理的事情が重大な障害となる恐れがある。競技場はともかくとして、多数の外国人観光客を受け入れるための宿泊施設が不足している。大会開催のためには英語、ドイツ語、フランス語などの通訳が大勢必要だが、日本では外国語に堪能な人が少なく、その確保が極めて困難である」。
体協は「オリンピック招致」に腰が重かった
当初から大会を招請する主催都市・東京市と、運営の主体となる組織委員会の母体の体協の間に決定的な温度差があった。
永田は友人の下村宏(海南)・東京朝日副社長に協力を依頼。下村は長年IOC委員を務める嘉納治五郎・元東京高等師範(現筑波大)校長に相談した。下村と嘉納が岸会長を説得。その説得の甲斐あって、体協は翌1931年4月の理事会で「第12回オリンピックの東京招致に努力する」ことを決議したが、その後も慎重な姿勢を崩さなかった。当の岸も1932年9月の段階でも、昭和天皇への進講で「東京に第12回の大会を持ちきたることは」「非常に困難なりと存じます」と述べている(「岸清一伝」)。
体協は、オリンピックについては自分たちが「本家」という意識から、開催にはやる東京市などの動きを牽制して腰が重かったと思われる。