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東京オリンピック招致の功労者で、返上の引導を渡した仕掛け人

 1932年7月、オリンピックに合わせてロサンゼルスで開かれたIOC総会では、1940年の大会候補地として東京を含む10都市が名乗りを上げた。その後、東京、ローマ、ヘルシンキに絞られたが、日本は前年の1931年に日本軍の謀略で始まった「満州事変」を「日本の侵略」とする国際世論から冷たい視線を浴びていたこともあり、独裁者ムソリーニ首相が強力に推進するイタリア・ローマが有力とされた。

 そんななかで、1933年10月に岸が病気で急死。後任のIOC委員に大日本バスケットボール協会(当時)会長の副島道正・伯爵が就任した。佐賀県出身の明治の元勲・副島種臣の3男でイギリス・ケンブリッジ大学を卒業。外国に知己も多かった。

「戦前のIOCは貴族や富豪が顔をそろえ『サロン的雰囲気』が濃厚だったから、その意味でも華族副島道正の委員就任はうってつけの人選といえた」(「幻の東京オリンピック」)。彼こそ、1940年東京オリンピック招致成功の功労者であり、返上の引導を渡した仕掛け人だった。

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副島道正 ©文藝春秋

正式決定にこぎつけるも険しい道のりに

 1935年1月、副島は譲歩を求めるため、ムソリーニ首相に面会を求めた。そのとき副島はインフルエンザにかかっており、待っている間に病状が悪化して卒倒。一時は重体に陥った。そんな状態での直談判がムソリーニの心を動かしたのか、回復後の2月初めに面会した際、ローマの辞退に言及した。ノルウェーのオスロで開かれた1935年IOC総会では決定延期になったものの、ドイツのヒトラー総統の後押しもあって、ベルリンオリンピックに合わせて開かれたIOC総会で正式決定にこぎつけた。1936年8月2日付読売夕刊は「オリムピックが来る! 六百万市民の歓呼 街に溢る祝賀気分」の見出しで国民の歓迎ぶりを報じた。

ベルリンオリンピックの様子 ©文藝春秋

 しかし、そこからは、永田らが考えていたよりはるかに険しい道のりだった。大きな難関だけでも(1)大会の理念・構想(2)国内関係者の意思の統一(3)軍部の関与(4)経費の手当て(5)メーンスタジアムの選定――などが挙げられる。どれをとっても極めて困難な問題だった。

 8月2日付東京朝日の社説は「その実力において、誠意において、かつは諸般の整備において、日本が、完全にその成果を挙げ得べき資格と信念とを認めしめたことは、わが国家国民の無限絶大な誇負でなければならない」と書いた。これに対し、社会主義者の山川均は「文藝春秋」同年9月号で「国際スポーツの明朗と不明朗」と題してオリンピックを論じている。