「昭和の大事件」で、1931年9月に始まった「満州事変」を、1936年の「二・二六事件」と並んで、戦争の時代へ突き進む日本の歴史の転換点だったと書いた。今回の「爆弾三勇士」はその翌年1932年の「上海事変」中のことだが、「点火した爆弾を抱えて鉄条網に突っ込み自爆する」という、いまでは想像もつかない「事件」で、国民の意識を戦争に大きく向かわせた転換点だった気がする。
国民と新聞が生んだ衝撃の神話「爆弾三勇士」
エリート軍人ではない3人の兵士の「忠勇」を賞賛する熱気が予測しなかったほど大きく広がり、「自分の命を捨てて国に尽くす」ことが「大和魂の精華」として国民に求められる時代の空気になっていった。その意味で「爆弾三勇士」は、国民と新聞などのメディアと軍部が意識しないまま合作した「神話」だったといえる。
なお、「爆弾三勇士」は東京日日(東日)・大阪毎日(大毎)が使った呼称で、東京・大阪の朝日(東朝・大朝)は「肉弾三勇士」を使用。出版物や映画、演劇なども2つに分かれた。全体としては「爆弾」がやや優勢か。この記事も「爆弾」で統一する。
「『帝国万歳』と叫んで 吾身は木端微塵 三工兵点火せる爆弾を抱き 鉄条網へ躍り込む」(東朝)、「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死 志願して爆弾を身につけ 鉄条網を破壊した三勇士」(大朝)、「世界比ありやこの気魄 点火爆弾抱き鉄条網を爆破す 廟行鎮攻撃の三烈士 肉一片を留めず」(東日号外)、「肉弾で鉄条網を爆破す 点火した爆弾を身につけて 躍進した三人の一等兵 忠烈まさに粉骨砕身」(大毎)、「爆弾を抱いて鉄条網へ 壮烈!決死隊以上 廟行鎮の敵陣突破にこの犠牲 無双、三勇士の最期」(読売)……。
1933年2月24日の各紙朝刊は、そろって華々しく報道した。このころは東朝・大朝も東日・大毎も、それぞれ同系列でありながら、東京と大阪では紙面構成も記事の内容もかなり違っていた。お互い競争意識があり、独自紙面にこだわっていたようだ。
「歩兵の突撃路を切り開いた三名の勇士」
軍の「司令部発表」記事を載せているのは大朝と読売だが、読売は電報通信社(現在の電通)の配信記事と思われる。大朝を見てみる。当時、部隊名などは軍事機密として公表を禁じられた。
「22日払暁、〇〇第〇〇〇〇団は独立で廟行鎮の敵陣地を突破し、友軍の戦闘を有利に導いたが、その際、自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ、身をもって深さ4メートルにわたる鉄条網中に投じ、自己もろともにこれを粉砕して勇壮なる戦死を遂げ、歩兵の突撃路を切り開いた三名の勇士がある。〇団長以下全〇団の将兵はこれを聞き伝え、深き感謝と哀悼の情を捧げている」。
その後に「三勇士」の名前を挙げている。
「工兵第〇〇〇一等兵江下武二(佐賀県神埼郡蓮池村出身)、同北川丞(長崎県北松浦郡佐々村出身)、同作江伊之助(同平戸町北川出身)」。資料によれば、入隊前、江下は炭鉱の採炭員、北川は木挽き(山林作業員)、作江は沖仲士(港湾作業員)。3人とも1910年生まれで満21歳の若者だった。
大朝の同じ紙面には上海特派員電で3人の行動が書かれている(東朝にも載っているが、微妙に違う)。