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連載昭和事件史

3人の若者を犠牲にした戦争神話から「命を捨てて国に尽くす」時代が始まった

“軍国美談”はなぜ生まれてしまったのか #2

2020/03/01
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 三勇士関連のエピソードで最も知られたのが「血染めのハンカチ」だろう。

 2月26日付大毎と地元の福岡日日新聞の朝刊に掲載された。大毎は社会面トップで大きく「爆弾勇士をめぐる出征美談 見知らぬ少年の激励に 感激して血染の形見 江下一等兵涙の別れ」の見出し。「三勇士の一人江下一等兵が生きて再び帰らじとの決意を一層強めた動機について奇しき美談がある」と前置きをしながら、2月9日夜の「万歳歓呼裏に久留米駅から出征の途に上らんとする刹那の出来事だった」。

江下武二

小指を切り、したたる血潮でハンカチを染め……

 小学5年生の少年が駅のホームで日章旗を振って「万歳」を叫んでいたとき、寂しそうな一人の兵士が前を通った。「少年は『おーい、兵隊さん、〇〇〇一人ぐらい殺してきてくださいよ』と叫んだ。すると、その兵隊はハタと立ち止まり、目に涙さえ浮かべて、つかつかと少年に近寄って手を固く握り『よく言ってくれた。君のその言葉は決して忘れん。僕は生きて再び帰ろうとは夢にも思わぬ』と」言った。「腰の剣を抜き、いきなり自分の左の小指を切り、したたる血潮でハンカチを染め、『これは僕が形見の血染めのハンカチだ。持って帰ってくれ』と手渡し、いままさに発車せんとする軍用列車に飛び乗ったのである」。

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 2月27日付同紙夕刊には形見のハンカチを広げて持った少年の写真が載っている。この「美談」にもかなりの「脚色」があったことが分かっている。

「血染めのハンカチ」を伝えた大阪毎日

教科書にまで載るようになった「三勇士の軍国美談」

 そして、遂に三勇士は教科書にも載る。1941年~1945年の「第5期、つまり軍国日本では最後の国定国語教科書(初等科2-21)に難産のすえ登場した」(中内敏夫「軍国美談と教科書」)。松下大尉の「戦史」にほぼ従っているが、作江一等兵がいまわの際に「天皇陛下万歳」と叫んだことになっている。「自ら死を志願」の点は触れていない。

 同書は「浪曲、講談まで交えた数々の三勇士ものは、国定教材に登用される以前から、既にこの役割を果たし始めていた」と指摘。「一君万民主義原理を、初等学校の教室を通じて国民の心の内部に再生産しようとする国定教材の素材としてはこれにすぐるものはなく、現にすぐれていることの証拠はあがりつつあったのである」とした。

 それでも「三勇士の軍国美談は(19)33(昭和8)年から38年にかけて改訂された第4期本には、遂に採用されることがないままだった」。同書はその「難産」の理由について、「国定教材の三勇士像と現実のそれとの間にズレが存在していたのではないか」と推測する。そのズレとして、作江一等兵の最後の言葉が本当に「天皇陛下万歳」だったかどうか、3人の中に被差別部落出身者がいたかどうか、などを可能性として挙げた。

 すさまじいブームとなった三勇士の軍国美談に疑問を呈する意見は当初からあったようだ。