1ページ目から読む
7/7ページ目

ここから始まった「命を捨てて国に尽くす」という異常な行為

「婦人世界」1932年4月号の「爆弾三勇士の全遺族を訪ふ」で「本誌特派員」は「三勇士はいわゆる私たちの概念であるところの豪傑偉人英雄のそれではなくて、私たちと同じ棟続きに住み、かつ同じ物を食べてきた平凡な隣人である。そうした点に気づいた時にハタと膝をたたいて『隣の家から出た英雄』を発見したような驚きと親しみを覚えさせられる」と書いた。「天皇陛下萬歳」はさらに強く主張する。

「疑いもなく、ここにいま、新しい神が生誕したのである。過去のどんな軍神とも違った軍神が生まれたのである。炭鉱の労働者ばかりではない。同じように、あるいはさらに暗い重い屈辱にあえぐ人々が、熱い痛苦の涙で洗い潔めてこの神を受け入れた原因も、またここにあると言わねばならない。彼らにとって三勇士は、どんなに偉大な血統正しい軍神よりも身近な、親しい存在として感じられた」

©iStock.com

「三勇士は多くの人から『軍神』とみられたが、廣瀬(中佐)や橘(周太陸軍中佐)の時のように『軍神』という称号が一般的になることはなかった。やはり、指揮官か兵卒かという違いが、ここに反映していたのであろう。たしかに三勇士は軍人の模範だろうが、軍の『神』として崇めるほどの存在とみるべきではないという判断が働いたものと思われる」と「軍神」は書く。そうかもしれない。廣瀬や橘のように神社が造られることもなかった。逆にいえば、それだけ人々から人間的な親しみと共感を持たれたともいえる。

ADVERTISEMENT

 しかし、当時は人々が「ショック」で「興奮」した「命を捨てて国に尽くす」行為が、やがて暗黙の了解のうちに事実上強制的に戦場で繰り返されるようになるまでには10年ほどしかかからなかった。

【参考文献】
▽黒羽清隆「日中15年戦争(上)」 教育者歴史新書 1977年
▽加藤秀俊「美談の原型 爆弾三勇士」=「昭和史の瞬間 上」朝日新聞社、1974年所収
▽参謀本部編「満州事変史第11輯 上海付近の会戦(上)陣地攻撃及追撃」 参謀本部 1935年
▽「昭和天皇実録第6巻」 東京書籍 2016年
▽清水晶「戦争と映画」 社会思想社 1994年
▽佐藤忠男「トーキー時代〈日本映画史3〉」=「講座日本映画(3)トーキーの時代」 岩波書店1986年所収
▽山室建徳「軍神」 中公新書 2007年
▽中内敏夫「軍国美談と教科書」 岩波新書 1988年
▽東京12チャンネル 報道部編「証言私の昭和史(1)昭和初期」 学芸書林 1969年
▽鷹橋信夫「昭和世相流行語辞典」 旺文社 1986年
▽古賀牧人編著「近代日本戦争史事典」 光陽出版社 2006年
▽小野一麻呂「爆弾三勇士の真相と其観察」 自費出版 1932年
▽国防義会編「爆弾三勇士」 国防義会 1933年
▽教育総監部編「満州事変忠勇美譚」 川流堂小林又七 1933年
▽畑中敏之「『爆弾三勇士』をめぐる風評と部落問題」=「身分を越える―差別・アイデンティティの歴史的研究」 阿吽社 2014年所収
▽古屋哲夫「日中戦争」 岩波新書 1985年
▽慶應義塾大学法学部政治学科玉井清研究室「近代日本政治資料集(18)第一次上海事変と日本のマスメディア」 2013年
▽「雑誌真相 特集版(4)」 三一書房 1981年
▽上野英信「天皇陛下万歳 爆弾三勇士序説」 洋泉社 2007年